「なにか良いことありました?週末」
とはるちゃんが月曜日の午前中の休憩時間に、僕に微笑みながら聞いてきました。
はるちゃんは30代後半の独身女性で、会社の仕事仲間です。
「高校の友達から電話がかかってきて、懐かしい話をしたよ」と僕は答えました。
「どんな話?」とはるちゃんは食い気味で言いました。
「僕の元カノが結婚して子供がいるって教えてくれたんだ。それで、なんか懐かしくて動揺しちゃってつらかった」と僕は言いました。
「全然いいことじゃないじゃないですか」とはるちゃんは笑いました。
「なんで別れたんですか」とはるちゃんは続けました。
はるちゃんの興味を引いたみたいです。
「彼女とは結婚を考えてたんだけどね、僕がサラリーマンを辞めてこの会社を作るって言ったら、なんだか将来に不安を感じたんじゃないのかな。仕事も忙しくてつらそうだったから、結婚して仕事をやめたかったのかもしれないね。お見合いをするから別れてって言われちゃったんだよ」
「その人と結婚しなくてよかったと思いますよ」とはるちゃんはきっぱりと言いました。
「結婚って、別に保険とかセーフティネットじゃないと思うし。仕事が嫌なら、自分で向き合って何とかしていくしかないんじゃないかな。人生の舵取りまで誰かに預けちゃう人って、結婚してもまた別の不満が出てくると思うな。今度は『旦那が家にいてくれない』とか『思ったほど自由がない』とかさ」
はるちゃんは少し眉を上げて、コーヒーを一口飲んで続けました。
「結局さ、自分の人生を自分でちゃんと生きる覚悟がないと、どこに行っても満たされない気がするな。ゴルフとか海外旅行も、誰かに連れてってもらうんじゃなくて、自分で行けばいいのに、って思うけどね。まあ…そういう人って、結婚相手にするとちょっと疲れるタイプかもしれないですね」
「そうかもしれないね」と僕は言いました。
「結婚って、ほんとは、誰かと一緒に頑張っていくものじゃないですか?」
はるちゃんは、マグカップを両手で包みながら続けた。
「安定とか幸せって、あとからついてくるもので、
最初から“ラクしたい”とか“自分の好きなことだけやってたい”っていうのは、
ちょっとズルいなって思っちゃうんですよね。
そういうのって、気づかないうちに相手を“都合のいい人”にしちゃってる気がして……」
コーヒーに口をつけたあと、ふっと笑って小さく肩をすくめた。
「……ま、私が言うのもなんですけどね。恋愛とか結婚とか、うまくいったことないし」
「でも、だからこそ思うんです。“この人となら、転んでも笑えるかも”って思える人じゃないと、きっと、続かないんだろうなって」
「そうだね」と僕は頷きました。
その言葉には、素直さと、彼女なりの経験からくる静かな説得力を感じました。
言い切った後に、はるちゃんは深い溜め息をついて「結婚したいな」と声が漏れるように言いました。
その後、気を取り直すように「それに、もしその人と結婚してたらこの会社もなかったかもしれないですよね。そうしたら私は仕事に困っていたかもしれないじゃないですか」と言って人懐こく笑いました。
はるちゃんは喋り終えると、作業着のズボンのポケットから小瓶を取り出して、僕の首元にいきなりスプレーを数回ふりかけました。爽やかな果実系の匂いと共にひんやりとした感触が広がりました。
「涼しくなるスプレー」とはるちゃんは笑いました。「今日もお仕事頑張りましょう」
「ありがとう」と僕は言いました。
その後、僕は得意先に車で向かいました。車内には、はるちゃんの涼しくなるスプレーの香りが漂っていました。運転中、はるちゃんの話が頭に浮かんでは消えました。
「損切りした?500万くらい?」
仕事を終えて帰宅し、シャワーを浴びてダイニングで麦焼酎のロックを飲んでいると嫁タソが話しかけてきました。
僕は平日は殆どお酒を飲まないので、嫁タソには異変が感じられたのでしょう。嫁タソはカーキグリーンの半袖Tシャツとショートパンツのルームウェアで普段から細い目をさらに細めて笑っていました。時計を見ると22時を少し回っていました。
「最近はもっと早く切ってるよ」と僕は苦笑いしながら答えました。
嫁タソは赤ワインをグラスに注いで僕の前に座ると「じゃあ何?」と言いました。
僕は思い切って話すことにしました。
「金曜日に高校の時の友達から久しぶりに電話があって、そいつが『そういえばさっちゃん、結婚して子供いるらしいよ』って言ったんだ。さっちゃんって…その、20歳くらいの時に付き合ってた子なんだけどね」
僕はそう言いながら、嫁タソの目をそっと覗き込みました。
「ふぅん…そうなんだ。」
嫁タソは軽く相づちを打ちながらグラスに口をつけました。
「別に…今さらどうこうってわけじゃないんだよ。20年近く前の話だし、それきり一度も会ってないし、もちろん恋愛感情とかもないし。ただ、なんかそう聞いたら、昔のことが思い出されちゃってね。懐かしいっていうのかな、ちょっと変な気持ちになっちゃってさ」
僕は正直に話しました。
「うん…男の人って、そういうの結構引きずるよね」
嫁タソはちょっとだけ茶化すように笑いました。
「当時さ、別れたのは彼女の方からお見合いするって言われて、まあ、そのまま別れたんだけど…。実際にはそのずっと前から会社をやめて独立するかしないかって話がきっかけで上手く行ってなくて、もうその頃には冷めてたはずなんだよ。でもさ、今になって思うと、ちゃんとありがとうくらい言っておけばよかったかなって、ちょっと思ったりしてね」
「ふぅん…まあ、今だから思うんだろうね。若い時ってそういう余裕ないしね」
嫁タソは少し微笑みながら、優しく返してくれた。
「それでね、一瞬だけだけど…手紙でも書いてみようかな、なんて考えたりもした。でももちろん、送ったりはしないからね。今さらそんなの届いたら迷惑だろうし、旦那さんが読んだら気まずいだろうしね」
「うん。それでいいと思う」
嫁タソはグラスに口をつけてワインを少し飲んでから、ニコっと笑った。
僕もつられて笑いながら、
「うん、そうだね。話せてちょっとスッキリしたよ。ありがと、葵ちゃん」
と答えました。
「正直に話してくれてありがとう」
嫁タソはそう言って微笑んだ。でも、その目にはわずかに怪しい光が宿っていました。
「でもね、私は別のことを聞きたかったんだけど?」
僕は一瞬、何のことか分からず、首をひねった。
「え? 別のことって?」
嫁タソはゆっくりと立ち上がり、脱衣所に行くと僕のワイシャツを手に取って戻ってきた。
「これなんだけどさ」
と静かに言いながら、シャツの胸元あたりを指先で軽く撫でました。
「ああ…それがなに?」
僕は一瞬で背中に嫌な汗が浮かびました。
「なんかさ、これ、いつもと違う匂いがするんだよね?」
嫁タソは少し首を傾げながら、じっと僕を見た。声のトーンは柔らかいのに、目だけが全く笑っていなかった。
「いや、それは……その、はるちゃんがね」
僕は咄嗟に説明を始めた。
「はるちゃん?」
嫁タソの声のトーンが一段低くなった。
「えっと…会社のスタッフで。前にもちょっと話したと思うけど、ちょっと…まぁ、明るい性格でさ、休憩中に『今日もお仕事頑張りましょう』って、涼しくなるスプレーを僕のシャツにシュッて…。」
僕は必死で手振りも交えて説明した。
「ふぅん……スプレーを? いきなり?」
嫁タソはそのままシャツを嗅ぎながら、ゆっくり歩いて僕の正面に戻ってきた。
「いやほんと、何もやましいことはないんだって。悪ふざけというか、まあ…ちょっと距離が近いと言うか、そういう子だから…」
嫁タソは僕の顔をじっと見つめたまま、しばらく黙っていた。
僕がもう緊張に耐えられなくなりそうな所で、ふいに小さく笑った。
「そっか。そういうことなら、まぁ…許してあげる」
僕はほっとしかけたが、嫁タソは続けた。
「そうやって周りに好かれてるのは、あなたらしいなって思う。でも…誰かが本気になったら困るから、ほどほどにしておいてね?」
その言葉に僕は苦笑いした。
「うん、気をつけるよ」
嫁タソは赤ワインのグラスをゆっくり揺らしながら、穏やかに言った。
「あなたのこと信じてるよ。こうやってちゃんと話してくれたのが嬉しい」
その笑顔は優しくも凛としていて、
僕はあらためて「この人と結婚してよかった」と思った。
そう思える瞬間がこれからも何度も訪れるんだろうな。
「ちょと早いけど、そろそろ寝ようか」と嫁タソが言いました。
僕は頷きました。
嫁タソが立ち上がると、さっきまで気になっていたシャツの香りは、どこかへ消えていました。
代わりに、嫁タソの髪の匂いが僕をくすぐりました。