遠い昔のことですが、長くお付き合いしている女の子がいました。
その女の子は結婚したいからお見合いすると言って僕の前から消えていきました。
一部性的な描写がありますので苦手な方はご注意ください。
でも実は、彼女がお見合いをしたいと宣言をする1年くらい前から、僕の彼女に対する愛情みたいなものは冷めていました。
もう何年も付き合っていると慣れてきちゃうというか、空気みたいになってしまうというのとはまた違って、
なんだか僕と彼女の思いの方向性がズレてきて、それが鈍感な僕にも感じられたせいだと思います。
僕はずっと彼女と結婚したいと考えていました。
おそらく彼女も僕と結婚したいと考えていたはずです。
ある日、彼女は僕を姉夫婦に紹介してくれました。
落ち着いた雰囲気の寿司屋でした。
彼女の姉も、その旦那さんも、とても感じの良い人たちでした。
「真面目そうで安心したわ」「頼りにしてるのね」と姉が笑うと、彼女も少し照れくさそうに微笑んでいました。
そんな彼女の様子を見て、僕は内心とても嬉しかったです。
ああ、彼女も本気で僕との結婚を考えてくれているんだな、と実感した瞬間でした。
このときはまだ、二人の未来はゆっくりだけど着実に進んでいると、僕は信じていました。
彼女の姉夫婦が、僕のことを気に入ってくれて、彼女の両親に結婚相手として問題ないと推薦してくれていると彼女から聞きました。
彼女も僕と結婚したくて、両親の賛成を得るために手を打っていたのだと思います。
僕はけっこう真面目に働いていたし、年齢なりの収入はありました。
ただ、その現状に満足しているかといえばそうではなくて、自分で会社を起こそうと考えていました。
僕が学生の頃から始めたビジネスが育って、そろそろ法人化が視野に入っていました。
彼女に「会社を辞めて独立しようと思う」という話をしたときのことです。
「せっかく安定した会社に就職したのになんで辞めようなんて考えるの」と彼女はいいました。
本当に不思議そうに、困り果てたという顔でした。
彼女の両親も彼女と同じく、僕の考えに反対でした。
結婚を推薦してくれている彼女の姉と姉の旦那も同様のようでした。
僕は子供の頃からちょっと変わっていて、小学生の時から「大人になったら、小説家か投資家になりたい」と考えていました。
でも、小説を書くほどの才能も、時間も持ち合わせていなかったので、投資家になろうと本気で考えていました。
投資家になるにはまずはお金がいるので、どうすればいいのか考えた結果、まずは会社の社長になろうと思い立ったのが19歳のときです。
お金を沢山稼いで、投資で回して利益を上げ、労働をすることなく収入を得るということを考えていました。
社長になると思い立ったときから、彼女に将来の夢として「投資家になりたい」とか「売れなくてもいいから本を出したい」とか「とりあえずまずは会社の社長になるんだ」ということを話していました。
なんだか、僕はサラリーマン的な生活に魅力を感じないんだとも話をしていました。
まだ彼女も将来を現実として捉えていなかったのか、その当時は賛成も反対もしないで、ちょっと不思議そうな顔で話を聞いていました。
でもお互いに社会に出て3年目くらいになると現実はリアリティを伴って僕達の前に立ちはだかっていました。
彼女はシフト制の職場で働いていて、ある程度責任のある立場だったので、かなり忙しそうでした。
遅番で深夜に帰宅し、翌朝には早番のシフトに入るようなことが日常的にあり、お風呂に入る時間がないと愚痴をこぼしていました。
僕も会社の仕事と自分のビジネスで忙しく、疲れを感じることが多くなっていました。
お金を稼ぐ大変さというか、仕事を継続する大変さというのか、疲労と同時にこれが生涯続くのかという諦めみたいな感覚があったのかもしれません。彼女の目元には暗い影が常に見えるようになっていました。
僕が独立の話をしたのはそんなタイミングでもありました。
ある日ドライブをしていると、
「さやさやと結婚したら、一生、ああいうアパート暮らしになりそう」と彼女は助手席の窓から、街道沿いに建つ、木造の古いアパートを見ながら言いました。
白い外壁はところどころ黒ずみ、物干し竿が斜めに傾いていました。
あのとき助手席の彼女が見ていたのは、古びたアパートじゃなくて、僕の選ぼうとしている人生の危うさだったのだと思います。
「それも悪くないよ。都会の片隅で二人でひっそり寄り添って生きていくみたいなのもいいじゃない」と僕は冗談混じりに言いました。
でも、本気でそう考えていました。
綺麗で大きな家に住んでいても愛情がなければ幸せとは言えないと僕は本気で考えていましたし、同時に会社の経営が上手く行けば多少なりとも裕福な暮らしも可能なはずです。失敗したらまたやり直せばいい。そう考えていました。
でも、彼女は僕の顔を不思議そうに眺めるとそれきり黙ってしまいました。
横顔をちらりと見ると、彼女は唇を少し噛んでいました。
彼女が安定を求めていたことは感じていました。
でも当時の僕は、自分の理想を実現させることに夢中でしたし、それこそが彼女にとっても幸せなことだと信じていました。
彼女には会社で仲の良い女性がいました。
正確な年齢はわかりませんが30歳を過ぎているようでした。
とても可愛らしくて、優しい、とても素敵な女性でした。
でもどことなく、儚いというか、影のある雰囲気をまとっていました。
彼女は独身でした。
10年近く同棲していた彼氏と別れて、今はお兄さんのアパートで暮らしていて、彼女のお店でアルバイトをしていました。
彼女は僕とこのまま付き合っていたら、その女性のようになるかもしれないと考えたのかもしれません。
ある日、彼女は唐突に「ナンパとかお見合いだって、きっかけだけだから別に悪いことじゃないと思わない?」と言いました。
「私達みたいに偶然知り合って付き合い出すのが普通ってわけじゃなくて、ナンパとかお見合いをきっかけに結婚するカップルだって別に普通だよね」
「そうだと思う」と僕は言いました。
でも彼女の言葉は、自分の中で消化されていない何かを無理やり納得させるために発せられたように聞こえました。
ナンパやお見合いで知り合った人と結婚するということに彼女は抵抗感があったのだと思います。
ただ、僕と別れて自然な次の出会いを待つという余裕はないようでした。
僕以外の誰かとの将来の可能性を考えていたのだと思います。
それから少しずつ、彼女は僕との距離を置くようになりました。
電話をかけても出ない日が増え、折り返しの電話もこない。
仕事が忙しいのだと思っていました。
でも、だんだんとそれだけではないように思い始めました。
久しぶりに会って将来の話をしようとすると「今はそういう話、したくない」と小さく笑って話題をそらされたりしました。
彼女には昔からそういう傾向がありました。
僕に対して何か気に入らないことがあると黙り込んでしまい、しばらく連絡が取れなくなったりしました。
結婚を考えていない段階では、可愛らしいと感じていました。
仲直りをして、また、なんとなく絆が深まるような感覚さえありました。
でも今回は僕の気持ちはすこしざらつきました。
結婚すれば様々な問題や障害となる出来事が発生すると思います。そのつど、話し合いを拒んで距離を取るようなことをされては結婚生活が難しくなるのではないかと思いました。
もし彼女が、面と向かって僕に「不安だから独立はもう少し待って」と言ってくれれば、僕は彼女と話し合って、会社で働きながら副業としてビジネスを続けていくという選択肢だってありました。
いつか彼女が納得してくれた時点で独立すればいいだけのことです。でも、こういう考えを持っている男は彼女の結婚相手としては減点の対象だったのかもしれません。
あるいは、僕の目標を邪魔したくないと考えていたのかもしれません。もしそうなのだとしたら、そう伝えてくれれば話し合うきっかけになるのにと思いました。
1ヶ月ぶりくらいに彼女に会いました。
彼女の誕生日でした。
プレゼントにネックレスをプレゼントしました。
この前の年にリボンの付いた可愛い麦わら帽子をプレゼントしたら彼女の機嫌がとても悪くなりました。
未だにその理由はわかりません。
そんな事があったので、僕は彼女へのプレゼントを女友達に相談して慎重に選びました。
当時流行っていたハートの形をしたネックレスでした。昨年とは違い、彼女は喜んでくれているように感じました。
僕達の空気は、僕が独立の話をしてから明らかに冷めていました。でも、もしかしたらこれがきっかけでまた昔のような熱のある関係に戻れるのではないかと僕は期待しました。
彼女にも多少なりともそういう希望が合ったのだと思います。
僕の独立のことも含めて、将来のことを話し合おうと僕は提案しましたが、話したくないと彼女は真剣な顔で言いました。
その夜、僕達は数カ月ぶりにセックスをしました。
服を脱がせようとすると「上は脱ぎたくない」と彼女は言いました。
それが何を意味するのかはわかりませんでしたが、僕達は服を着たまま繋がりました。
これでまたもとの関係に戻れるかもしれないと僕は思いました。
でも、セックス中の彼女の表情を見ているうちに、今までとは違う居心地の悪さが広がっていきました。彼女が原因なのか、僕自身に原因があるのか、あるいは二人共なのか、見えない壁のようなものをはっきりと感じました。僕は途中で諦めて「ごめん。もうやめよう」と言いました。
そんな事ははじめてでした。
彼女は一瞬驚いたようでしたが、うんと頷いたまましばらく黙っていました。
多分、彼女は「君と結婚したいから僕は独立を諦めるよ」と言ってほしかったのだと思います。
ボクは二人の恋人関係はもう終わっていたのだと感じました。でも、それを口にする勇気はありませんでした。
まだ、何かの変化が起こって、もとに戻れるかもしれないと考えていました。
それから数カ月後、彼女は泣きながら「お見合いをするから別れてほしい。海外旅行とかゴルフとかに連れて行ってくれる人と結婚したい」としゃくりあげて泣きながら言いました。
僕は「わかった」と言いました。
彼女の様子を見ていたら、なんで僕はもっと早く別れを言えなかったのかと後悔をしました。
彼女は本心ではお見合いはしたくなかったし、そのことを僕に伝えるのも嫌だったはずです。多分、僕との可能性を信じて、僕が彼女の希望通りに行動すると言い出すのを待っていた。
でも僕はそうしなかった。
少しでも早いタイミングで僕が「別れよう」と告げれば、彼女をここまで追い込まなかったはずです。
彼女とはそれっきり、一度もあっていないし、電話もしていません。
もう何十年も昔のことなのに、北関東ののんびりとした風景を眺めながら、取引先を回っていると不意に彼女のことを思い浮かべてしまうことがあります。
彼女は幸せになったのかを確認したくて、共通の知人に連絡を取ってみようかと思うこともあります。
でも、今はまだ思いとどまっています。
あのとき、彼女も辛かっただろうし、僕もやはり辛かった。
でも僕達は未熟なりに一生懸命だった。
僕達は一緒に生きていくことが出来なかったけれど、僕の人としての成長を促してくれたとても貴重な数年間でした。
どうか素敵な人と出会って、海外旅行やゴルフを共に楽しんで、幸せで充実した日々を送っていてほしいと願います。
僕は会社をやめて独立し、もうすぐ20年になります。結婚は一回失敗したけど、今は素敵な女性と子供四人と暮らしています。そろそろ引退して那須高原でのんびり過ごそうかと計画しています。
あの経験が、今の僕の人間関係や仕事、そして愛する家族との時間を、より大切にするための礎となっています。
もし、どこかで偶然に出会って話す機会があれば、ありがとう、と伝えたいです。
あなたに出会えたことは僕の人生にとってとても幸運なことでした。
さっちゃん、ありがとう。