麻里子の件で祥子と距離を置いていた期間、僕は幼馴染の真理子にその話をしました。名前がややこしいですが、高校の麻里子とは別人です。真理子は幼稚園からの付き合いで、家が50メートルほどしか離れていませんでした。家族ぐるみの関係で、僕がいなくても真理子は平気で僕の家に上がり込み、親や弟妹と話し込んでいるような仲でした。同級生にもう一人「万里子」という子がいたため、真理子は「リコ」と呼ばれていました。
小学校高学年でクラスが別れて少し疎遠になっていたものの、中学2年で再び同じクラスになり、幼い頃の絆に加えて、今度は友情のようなものが育ちました。高校生になっても、いきなり僕の部屋にブラック・ジャックの単行本全巻を並べに来たり、チョコモナカやマックスコーヒーを手土産にしてやってきては、恋愛での失敗談を無理やり聞かせてきたりと、相変わらずでした。
リコは小柄で、胸が小さく、頬骨が張っていて、目も鼻も口も小さく、全体的に平坦な印象の女の子でした。……今も年に数回連絡を取り合っているので、あまり悪く書くとバレたときに面倒なのでここでフォローしておくと、「当時は決して可愛くなかったわけじゃない」とだけ添えておきます。今はお互い、すっかりおじさんとおばさんです。
カールを食べながらブラック・ジャックを読んでいるリコに、「祥子に泣かれちゃってさ、すごい罪悪感なんだよ」とGジャンの件を話すと、リコはドン引きした表情で「うわ、サイテー」と言いました。
なぜか、その一言が僕の胸に深く突き刺さりました。
祥子との関係は、それで壊れることはありませんでした。
「ひと月くらい距離を置こう」と話していたのに、たぶん2週間くらいでまた会うようになって、自然と元の関係に戻っていきました。
その後、麻里子とは二人きりで会うのは避け、ただの仲の良いクラスメートとして卒業までの時間を過ごしました。そして高校を卒業すると、麻里子との関係は終わりました。
祥子はお菓子の専門学校へ進学し、僕は大学生になりました。卒業と同時に、つまらない理由で家族全員が引っ越してしまい、僕だけがそのままアパートに残って一人暮らしを始めました。
ある日、祥子と僕の部屋で過ごしていたときのこと。祥子は手帳を開いて、月のカレンダーのページに赤いハートのスタンプを押していました。
「これ、なに?」と僕が聞くと、祥子は微笑んで言いました。
「さやさやと会った日だよ」
女の子らしい可愛い習慣だなと、最初は微笑ましく思ったんですが、ふとした違和感が胸をよぎりました。
僕たちは週末にしか会っていなかったのに、週末以外、特に“毎週水曜日”にもハートのスタンプが押されていたのです。
「最近、水曜日には会ってないよね?」と僕が指摘すると、祥子の顔が強張り、目を大きく見開いて僕を見つめました。
しばしの沈黙のあと、祥子は観念したように表情をゆるめて、静かに語り始めました。
「……高橋くんと会ってたの」
祥子の言葉に、僕の心はざわつきました。
「高橋くんの仕事終わりに、家まで迎えに来てもらって、毎週水曜、ドライブに連れて行ってもらってたの」
よりによって、また高橋かよ……と、僕は心の中でうめきました。
「でも友達だし、高橋くんにも彼女がいるし、話をしていただけで浮気とかじゃないんだよ」と祥子は必死に弁解していましたが、正直、もう信じることができませんでした。
一度、別れの原因にもなった相手と、まだ繋がっていたなんて……。高橋は「祥子と寝た」と言いふらしていた男です。祥子が否定したからこそ、僕は嘘だったんだと信じるようにしていました。でも、まだ会っていたとなると──。
「今から高橋くんに電話して、もう会わないって伝える。だから、私を信じて」
祥子はそう言うと、電話帳も見ずにスッと番号を押しました。通話がつながると、「ごめんね、もう会えないの。彼氏に悪いから。本当にごめん」と何度も謝りながら、祥子は泣き出しました。
その姿を見て、僕は思ってしまったんです。
──本気で高橋のことが好きなんじゃないか、と。
「浮気なんかじゃない」と祥子は繰り返し訴えてきました。その言葉の裏で「本気でした」と言われているような、そんな気もしてきて。
でも結局、僕は「わかった、もういいよ。信じるよ」と言ってしまいました。
僕が一人暮らしを始めてからというもの、リコが僕の部屋にやってくる頻度が明らかに増えました。
「今日は『となりのトトロ』やるから一緒に見よう」とか、「ヴェルディの試合中継があるよ」とか、理由とも言えないような理由をつけては、ふらっとやってくるのです。
きっと将来への不安とか、漠然とした孤独感みたいなものに耐えきれなくなったとき、彼女は僕の部屋に来ていたのかもしれません。そんな気がしていました。
ある日、僕とリコは『トトロ』を見ていました。サツキがメイを探しに走り回っているシーンのとき、リコが突然、こう言ったんです。
「初めて会った男と、やっちゃった」
あまりにもトトロの世界観と乖離していて、僕は思わず「なにを?」と聞き返しました。
「セックス」と、リコは平然と言いました。
僕は戸惑いながら、「それで?僕にどうしろと?」と口にしました。
「付き合うことになった」と、嬉しそうでもなく、ただ淡々とリコは答えました。
「おめでとう」と僕は言いました。相手の名前を聞くと、なんと僕も何度か顔を合わせたことのある男でした。国会議員の息子で、ラグビーか何かをやっていた……そんな記憶がありました。
「そっちはどう?」とリコに聞かれたので、祥子が毎週水曜日に高橋とドライブしていたらしいことを話しました。
「友達だって祥子は言ってるけど、どうにも信じきれないんだよね」と僕。
するとリコは静かに、でもハッキリ言いました。
「でも私たちも、こうして部屋で二人きりで会ってる。お互いに恋人がいるのに」
「……たしかにそうだ」と、僕は答えました。
メイが見つかってホッとした場面のはずなのに、リコの言葉に僕の胸はズキッと痛みました。
「飲みに行こう」とリコが突然言いました。僕は『トトロ』の続きを見たかったのですが、「トトロが見たい」とはなんとなく子どもっぽい気がして、言えませんでした。
行きつけの居酒屋は少し混んでいましたが、すぐにボックス席に通されました。僕とリコは焼き鳥と冷やしトマト、生ビールを注文して、特に理由もなく「かんぱーい」とグラスを合わせました。
僕が『トトロ』について話していると、「リコじゃん。あ、さやさやじゃん」と声がかかりました。声の主は中学の同級生、知佳でした。中学時代は大人しくて地味な印象の子だったのですが、今はすっかり垢抜けていて、最初は誰なのかすぐにわからなかったくらいです。
「もう少しで飲み会解散だから、その後一緒に飲もうよ」と知佳は、お座敷のグループをちらっと見ながら言いました。
その後、僕とリコが3杯目のレモンサワーを飲んでいると、知佳がやってきました。
「職場の飲み会だったんだ。社会人ってつらいよね」と知佳は笑って言いました。
「随分雰囲気変わったね」と僕が言うと、
「ありがとう」と、知佳は少し照れたように笑いました。
リコは、何か忘れたいことでもあるのかというくらいの速さでお酒を飲んでいて、僕もそれにつられて少し飲みすぎて、いつの間にか陽気になっていました。
店を出ると、リコが突然「さやさやの部屋で飲み直そう。知佳も来いよ」と言いました。ほとんど宣言のような口ぶりで、僕は止める間もなく流されるようにコンビニで酒とつまみを買い、三人で僕の部屋へ向かいました。
部屋に戻ってすぐ、リコは一本目の缶ビールを飲みきる前に横になり、そのまま寝てしまいました。
缶ビールを片手に、僕と知佳はぽつぽつと話しました。お互いの変化のこと、昔のこと。知佳は綺麗になっていて、目にはどこか挑むような光が宿っていました。
そして突然、知佳は言ったんです。
「私、ピル飲んでるから、生でいいよ」
意味がすぐに理解できず、僕は頭の中でその言葉を何度も繰り返しました。
ピル飲んでるから、生でいいよ──。
「リコはほっといて、ホテル行こうよ。……それとも、見られるかもしれないスリルが好きなら、私はここでもいいよ」
知佳はそう言って、優しげな笑顔を浮かべていました。
僕は内心かなり動揺しつつも、できるだけ冷静に答えました。
「僕は、そういうのはあんまり好きじゃないんだ」
すると、知佳は少し肩をすくめて、
「じゃあ、ホテル行こう」と、さらりと言ってきました。
「そうじゃなくて……僕はなんというか、愛のない関係は無理なんだよ」と、僕は正直な気持ちを伝えました。
「大丈夫。私、けっこう上手いから。それに、あとから愛情がついてくると思う」
「そういう話じゃなくてさ。僕、彼女がいるんだよ」
「言わなければ大丈夫」と知佳は、まるで当然のように言いました。
「それに、どっちにしても部屋に女を2人も連れ込んでるんだから、今彼女に見つかったら言い訳できないでしょ?」
……たしかに、言い訳はできない。でも、だからって。
「でも無理だよ」と僕は、はっきり断りました。
ようやく諦めたように、知佳は「なんかつまんない」とぽつりと言って、部屋を出ていきました。
去り際、ドアの向こうから声がしました。
「どうせ私が帰ったらリコとやるんでしょ? やらなくたって、部屋に女泊めたってだけで、今どき中学生だって“当然やった”って思うから。同じことだよ」
知佳の言葉が残る部屋の中。
知佳が部屋を出ていくと、リコはどうやら一部始終を聞いていたようで、ベッドに寝転がったまま言いました。
「ちょっと見てみたかったな。知佳とさやさやの……」
そう言ってクスクス笑うと、
「マジで始まったらどうしようかと思ってドキドキしちゃった」
「それは流石にないよ」と僕は苦笑しました。
「でも、知佳は思いっきり振り切れてたね。完全にビッチだったもん」と、リコはまるで他人事のように楽しそうに言いました。
「それでどうするの?」
「知佳が言ってたみたいに、私と……する?」
僕もリコも、知佳の毒気にすっかりやられてしまったようで、逆に妙に軽やかな空気が流れていました。
「それはさ、もうちょっと先まで取っておいてもいいんじゃないかな」と僕は言いました。
「お互いにもう少し歳を取って、もう少し色んなことがわかってからのほうが」
「確かに」とリコが頷く。
「今そういう関係になったとしても、仮に恋人同士になったって、長続きしそうにないし、今の関係も壊れちゃいそうだもんね」
少し間を置いて、リコがふと提案しました。
「じゃあさ、28歳の私の誕生日。12月10日。お互いにそのとき決まった相手がいなかったら──付き合ってみよう」
「なんで28歳なの?30歳のほうがキリが良くない?」と僕が聞くと、
「30歳までに結婚したいんだ。だから、もしダメだったとしても、やり直す時間があるように」
それは、妙に現実的で、どこか優しい考え方に思えました。
リコは飲みかけの缶ビールを一口飲んで、顔をしかめてから笑い、
「じゃあ、約束ね。おやすみ」
そう言って、部屋を出ていきました。
ボクはクズです(*´ω`*)
続きますので今後ともヨロシクお願いします。