ギターの弦を押さえる圭介の指が、時折うまく動かなくなる。そういう日は、たいていバイトで長くレジに立っていた夜だったり、考えごとが頭に残っているときだ。音が途切れると、静けさが部屋に沈む。カーテンの隙間から差し込む街灯のオレンジ色が、部屋の壁をぼんやりと染めていた。
祥子は、ベッドの端に体育座りをして、圭介のほうを見ている。何も言わず、ただ黙って。視線が少し熱すぎて、圭介は気づかないふりをしたくなる。ギターの音に集中しようとしても、あの目が脳裏に焼きついて離れない。
「ねえ、今のフレーズ、昨日と変えた?」
ぽつんと、祥子が言う。圭介はうなずく代わりに、もう一度そこを弾いてみせた。
「うん、こっちのほうがいい」
それだけ言って、彼女はまた黙る。たぶん、もっと色んなことを考えているんだと思う。でもそれを伝える必要はないと、祥子は思っているのだろう。三年も付き合っていれば、言わなくても分かることと、言っても伝わらないことの違いくらいは分かってくる。
本当は、どこかに連れて行ってやりたい。どこか高い店で、ちゃんとした料理を食べさせてやりたい。でも、そんな余裕はない。バイトの給料は、スタジオ代と弦の交換で消えていく。
「またここでごめん」
圭介が言うと、祥子はかすかに笑った。
「ううん、ここが一番好き。ほら、あの窓から見える空、けっこう悪くないよ」
圭介が黙っていると、彼女は空を見上げたまま言葉を続けなかった。たぶん、その空の中に、彼の未来があると、彼女は勝手に思っているのかもしれない。
「昨日、バンドのやつとちょっと揉めてさ」
ぽつりと漏れた声が、思ったより大きく感じた。祥子は空から目を戻し、圭介の方を見た。驚いた顔ではない。待っていたような、そんな顔。
「なにで?」
「曲の方向性っていうか……。結局、プロになっても食えないかもしれないって話になって。現実見ろって」
言いながら、圭介は指先が汗ばんでいることに気づいた。ギターのネックが、急に遠く感じた。
「……ねえ、ほんとはさ、たまに思うんだ。何年も何年もやって、結局ダメだったらって。全部、無駄だったらって」
圭介の言葉に、祥子はすぐには何も返さなかった。部屋の外から、近所のバイクの音がした。低くて、遠くなっていく。
「無駄、じゃないと思うけどな」
静かな声だった。断言じゃない。優しさでもない。ただ、彼女の考えがそこにあるだけだった。
「もし、本当に無理ってなったら……」
言いかけて、圭介はギターをソファに置いた。手を伸ばして、祥子の指先に触れた。冷たくはなかった。けど、なんとなく、長く握っていられなかった。
「そのときは、そのとき。でしょ?」
彼女は、圭介の手を包むでもなく、逃げるでもなく、ただそのままにしていた。
ずるいな、と思った。何も言わないことで、全部受け入れるみたいな顔をする。だから、圭介はずっとこの人に甘えてしまう。どこにも連れて行けなくても、何も買ってやれなくても、それでもここにいてくれる。
もしかしたら――彼がミュージシャンになりたいと思ったのは、あの頃の衝動じゃなくて、この人の目に応えたいだけだったのかもしれない。
ふとそんな考えがよぎって、少し怖くなった。
でも、今さら引き返せるわけもない。ギターがない生活なんて、もう想像できないし、祥子がいない毎日も同じくらい怖い。
「なれるよ。圭介なら」
彼女はそう言って、窓のほうを見た。きっと、彼の顔を見なかったのは、お互いの不安がばれるのが怖かったからだと思う。
ほんとうは、ディズニーランドとか、横浜の夜景の見えるレストランとか、そういう“ちゃんとしたデート”ってのを、してやりたい。ブランドの財布とか、香水とか、女の子がインスタで載せてるようなやつを、何でもない日に「似合いそうだな」とか言って渡してみたかった。
でも、圭介の現実は、コンビニ弁当の値段を見て悩むような生活だ。
それでも、祥子は文句ひとつ言わない。彼の部屋に来て、ギターを聴いて、窓の外の空を見て、少し笑う。それだけでいいって顔をする。
そういう顔を見るたびに、圭介はまたギターを弾き続ける理由がひとつ増える。苦しくなるくらい、好きになる。
あの夜のことは、意外とよく覚えている。
ライブハウスの空気は、タバコと機材の熱でむっとしていて、狭いフロアの中で圭介はやけに汗をかいていた。自分の出番が終わったあと、出口近くの壁にもたれて水を飲んでいたら、目が合った。
白いシャツに、チェックのスカート。髪を後ろで結んでて、ちょっとだけ乱れていた。圭介と同じくらいの歳に見えたけど、なんとなくしっかりしてそうな雰囲気だった。
「ギター、すごく良かったです」
最初に話しかけてきたのは、祥子のほうだった。
「ありがとう」と言ったあと、圭介は何を返したか、もう覚えていない。でもそのとき、久しぶりに心臓がドクッと大きく鳴ったのだけは、妙に印象に残っている。
二人は同い年で、当時はまだ高校生だった。夢とか将来とかを語るのが、恥ずかしいよりも楽しい時期だった。
あれからもう、何年も経った。
祥子は専門学校を出て、今は駅前のケーキ屋で働いている。焼き上がったシュークリームをケースに並べた写真がスマホに届いたりする。お客さんに褒められたって、嬉しそうに送ってくる短いメッセージの中に、彼女の一日が詰まっている。
圭介はといえば、相変わらずギターを弾いている。昼はバイト、夜はスタジオ。ライブも減ったし、曲作りも思うようにいかないことが多い。正直、今の自分に“夢”って言葉がふさわしいのか、よくわからない。
だけど、祥子の熱は、ずっと圭介を温め続けてくれている。何も言わなくても、何も求めなくても、そこにいてくれるだけで。
そのことが、最近はかえって怖い。
圭介は、ほんとうにこの人を幸せにできるのか。
そんなことを考える時間が、増えてきた。考えてもどうしようもないことなのに、頭の片隅から離れてくれない。
「ねえ、ちょっと休憩しよう」
祥子がそう言って、キッチンから小さな皿を持ってきた。手作りのクッキーが並んでいる。ほろほろと崩れる感じで、甘さも控えめだった。コンビニのクッキーとは違って、噛むと何か、ちゃんとした時間が流れている感じがする。
「昨日、夜遅くまでかかっちゃったけど、がんばって焼いたんだ。バター足りなくて、ちょっとアレンジしたけどね」
祥子はそう言って、向かいに座った。笑ってるけど、少し目の下にクマがあるような気がした。圭介が何か言いかけたけれど、彼女はすぐに手帳を開いて、ペンを走らせた。
「何書いてんの?」
圭介がコーヒーを啜りながら聞くと、祥子は顔を上げずに、手帳のページをめくりながら言った。
「うーん、ちょっと予定整理してただけ」
ページの端に押された小さなスタンプが目に入る。赤いハートが並んでいて、その横に小さく「け」と書いてあるのに気づいた。
「これ、俺?」
そう聞くと、祥子は顔を上げて、にこっと笑った。
「うん、圭介と会った日。赤いハートって決めてるんだ」
「へえ。で、この青いやつは?」
「それはね、友だちと会った日」
「誰と?」
「高校の子たち。久しぶりに集まってさ、懐かしくて」
そう言って、彼女はページを指でなぞる。たぶん、思い出してるんだろう。教室の匂いや、くだらない話をした放課後とか。圭介にはもう、ぼやけてしまった記憶ばかりだ。
「楽しかったよ、すっごく。みんな全然変わってなくてさ」
彼女の声が、少し弾んでいた。クッキーをひとつ手に取って、ぽきっと半分に割る。圭介のほうを見て、「食べる?」と聞く目が無邪気だった。
その瞬間、胸の奥が温かくなった。
この人がいてくれる、それだけでいい――たぶん、心のどこかでそう思っている自分がいた。
でも、手帳を見ていて、ふと気づいた。赤いハートの間に、青いハートがぽつぽつとあって、その日は圭介じゃない誰かと過ごした時間なんだと思うと、少しだけ胸がチクリとした。もちろん、そんなの当たり前だってわかってる。でも、自分のいない日が、こうして目に見える形になると、どうしてだろう、ちょっとだけ寂しかった。