チューニングを終えて、指をスライドさせる。
音は悪くなかった。けど、どこか、指の動きがぎこちない。
いつもの部屋。いつもの角度で、祥子がベッドの端に座っている。
体育座りで、こっちを見ていた。何も言わず、ただ視線だけがまっすぐだった。
その視線は、ずっと前から変わらない。
熱のこもった、でも押しつけがましくはない——そう思っていた。ついこの間までは。
今日は、少しだけ違って見えた。
あの目の中に、本当に“今の自分”が映っているのかどうか、ふと分からなくなった。
夕暮れ時、雄二に言われた言葉が、まだどこかに引っかかっている。
——“今は、高橋と付き合ってる、って”
バカみたいだと思う。雄二が勘違いしてるのかもしれないし、高橋が嘘をついてるだけかもしれない。
でも、もしそうじゃなかったら。
この、いつもと変わらない“おうちデート”の景色すら、嘘だったら。
「今日のフレーズ、昨日より音が太いかも」
祥子が口を開いた。声のトーンも、顔の向きも、昨日と同じだった。
「……そう?」
圭介の返事は、自分でも少し冷たく聞こえた。
彼女は気にした様子もなく、膝を抱えたまま、静かにうなずいた。
“何も変わってない”はずの光景が、だんだんと輪郭を失っていく。
疑いが心にひとつ落ちると、音も、まなざしも、言葉すらも、どこか遠く感じた。
でも、それでも彼女はそこにいた。
変わらない顔で、変わらない距離で。
そのことが、かえってこたえた。
クッキーの皿を片づけたあと、祥子はぽつりと話し出した。
テーブルに両肘をついて、マグカップを両手で包みながら。
「わたし、しばらくこのまま、ケーキ屋でがんばろうと思ってる」
圭介はうなずいた。小さく。音も立てずに。
「いまのお店、やっと慣れてきたし。あの先輩も、前よりは優しくなったし。朝は早いけど、シュークリームがちゃんと膨らむとやっぱり嬉しいし」
言葉の端に、飾り気のない満足がにじんでいた。
「圭介は、バンドだよね?」
祥子がそう言って、少し顔を傾けた。
そのときの目が、まっすぐすぎて。
圭介は一瞬、まぶたを伏せたくなった。
「うん……まあ、そうだね」
「ずっと、応援してるから」
笑顔ではなかった。でも、確かに“熱”がこもっていた。
圭介の方へ向けられたそのまなざしは、信じようとすれば信じられるような、そんな強さがあった。
けれど。
心のどこかで、「この目は、誰にでも向けられるのかもしれない」と思ってしまった自分がいた。
それは、疑いというよりも、もう少し鈍い、痛みに近いものだった。
「ずっと、応援してるから」
祥子のその言葉に、圭介は小さくうなずいた。
けれど、胸の奥で何かがひっかかったままだった。
ほんとうに、それだけでいいのか。
彼女は、こんな生活を、この部屋での繰り返しを、それで満足しているのか。
「……俺が、バンドなんかやってるからさ」
そこまで言いかけて、口を閉じた。
“だから二股かけたんだろう”という言葉が、喉の奥に引っかかったまま、出なかった。
祥子は、何も気づかない顔で、コーヒーを飲んでいた。
その無防備さが、かえってこたえた。
圭介は視線をテーブルに落とした。
彼女の手帳が閉じられたまま、端に置かれている。あの小さなハートマークが、思い出のように押しつけられている気がして、見ないふりをした。
(……俺なんかじゃ、たぶん幸せにできない)
その考えが、ゆっくりと沈んでいく。
音もなく、ただ、確実に。
別れたほうがいいのかもしれない。
そう思う一方で、それを口にするのは、あまりにも現実すぎた。
「圭介、どうかした?」
祥子の声に、顔を上げる。
何でもないように笑う彼女の目が、まっすぐすぎて、まぶしかった。
「……ううん、大丈夫」
それしか言えなかった。
夕方の光が、カーテンの隙間から部屋の隅を照らしている。
彼女が使ったマグカップが、テーブルの上に残っていた。
(……別れよう)
はっきりとした言葉ではなかった。
ただ、どこかでそう決めるしかないと思った。
ギターには触れなかった。
テレビもつけず、スマホも見ず、ただそのままソファに沈み込んだ。
祥子の気配がまだ残っている部屋で、ひとつ深呼吸をした。
その空気の中で、自分がどうしても言えなかった言葉だけが、静かに膨らんでいた。
@shokochoco113
2024年12月8日
(ベッドの上。しわのついた掛け布団と、手に握ったスマホの影。部屋の灯りは消えていて、画面だけがかすかに光っている)
理由なんて、いらなかった。
わたしは、ただいっしょにいたかっただけなのに。
わかってるつもりだったのに、
ちゃんと、って思ってたのに、
なんでこんなに、苦しいんだろう。
#ごめんねって言われても
#わたしはなにも終わってない
#夢も気持ちもちゃんと応援してたのに
#もうなにが正しかったのかわからない
#今日だけはちょっと無理かもしれない