波:4話

ふたりの身体のあいだを、波がふたつ抜けていった。
祥子はゆっくりと佐山の腰から脚をほどき、静かに浮き輪の方へ戻る。
水が脚のあいだから落ちていく音が、かすかに耳に残った。

もう何もなかったような顔で、彼女は浮き輪に手をかける。
視線は上を向いたまま、空を見ていた。

「……風、変わったね」

言いながら、口元だけで笑った。
さっきよりも少し乾いた笑いだった。

佐山はその横顔を見ていたが、何も言わずに浮いたままついていく。

浮き輪がゆっくりと沖から岸に向かって揺れる。
波のリズムが変わって、風も少しだけ冷たくなっていた。

波がふたつ、三つ、岸へ向かって流れていた。
佐山はブイから手を離す。
そのとき、祥子が何も言わずに手を差し出した。
水に濡れた指先は、わずかに熱を持っていた。
それが潮のぬるさとは違うものだと、触れた瞬間に分かった。
佐山はそっとその手を握る。

ゆっくりと泳ぎ出すと、祥子の体がそのままついてくる。
波の揺れと、つないだ手の感触が、歩調のように静かに合っていく。
脚に残る疲れが水の中でほどけて、背中に当たる風だけが現実の輪郭を持っていた。

ふたりの間にあったものが、いまはもう、水の流れよりも確かなかたちをしていた。

陽は少し傾き、海面の色が鈍くなっている。
遠くにパラソルの影と、リコの浮き輪が見えた。
祐介の姿も、白いTシャツのまま砂の上で動いている。

音が戻ってくる。
波の音、子どもの叫び声、誰かがビニール袋を開ける音。
さっきまでの水の中の静けさが、もう少しだけ後ろに残っていた。

佐山は岸を目指して泳ぎ続けた。
振り返らなくても、祥子がついてきていることがわかった。
それで、もう十分だった。

 

砂に足が触れたとき、佐山は一瞬だけ立ち止まった。
濡れた水が足首を伝って流れ落ちる。
岸に近づくにつれ、波の音が乾いたものに変わっていった。

祥子は浮き輪から手を離し、黙って先に歩き出した。
髪が肩から滑り落ち、水滴が背中に細かく並んでいた。

タオルをかぶって砂の上に座ると、体がまだ海の温度を引きずっているのを感じた。
足元の砂はぬるく、くるぶしにまとわりつく感触がかすかにくすぐったかった。

祐介が砂の上に座って何かを飲んでいた。
リコが、タオルを肩にかけたままペットボトルを手にして近づいてきた。

「ねえ、なんかふたり、空気ちがくない?」

佐山は反応できなかった。
視線だけが浮いたように揺れて、答えを探す前に祥子の動きが入った。

彼女は足元のタオルを軽く払って、視線を外したまま言った。
「……からかわないで」
笑ってはいた。
でも、その声には、少しだけ置いてきた熱の名残があった。佐山はなにも言わなかった。
言えば、何かが壊れてしまいそうな気がした。

風がさっきより少しだけ冷たくなっていた。
海は、何も知らないふりで静かだった。

 

車の前で、佐山と祐介が並んで立っていた。
舗装された駐車スペースに夕方の光が差し、影が長く伸びている。
さっきまでざわめいていたビーチも、人の声が少しずつまばらになっていた。

「女子って、着替え長ぇよな」
祐介が言う。
スマホをちらっと見ては、すぐにポケットへ戻す。
濡れたTシャツの裾を指先でつまんで、何度か振った。

佐山は頷くだけで、海の家の入口を見ていた。
ウッドデッキの上に吊られた布がふわりと揺れ、やがて足音が近づいてくる。

先に現れたのはリコだった。
肩にタオルをかけて、サンダルをぱたぱた鳴らしながらまっすぐ歩いてくる。

そのすぐ後ろに、祥子の姿が見えた。
黒のノースリーブにカーキ色のショートパンツ。
首元にはタオルをかけ、濡れた髪を片手で束ねている。
日差しを受けた肩が、服の色と対照的に白く浮かんで見えた。

「よっ、遅いよ」

祐介が助手席のドアを開けながら言った。

「祥子ちゃん、ここ座りなよ。ほら、リコと佐山は仲良しだから、後ろでいちゃつきたいみたいだし?」

リコが一瞬の間を置いて爆笑した。

「ちょ、それマジ誰得?」

祥子も笑い、祐介もつられて声をあげる。
佐山も笑ってしまい、つい口を滑らせた。

「マジで誰得だよ」

その瞬間、リコの笑いが止まった。
鋭い目線が佐山に向かう。

「……あんたまで言う?」

「え、いや……ごめん」

佐山は思わず苦笑いで目を逸らした。
リコは一拍置いて、ぷっと吹き出しながら車に乗り込んだ。

「ま、いいけど。おもろかったし」

祐介も笑いながらハンドルを握る。
祥子が助手席のドアを閉めた音が、静かな海風に混じって消えていった。

 

帰り道は、来たときよりも静かだった。
祐介が運転席でFMラジオを小さめに流している。
流れているのは流行りのバンドで、サビだけかろうじて耳に残る。

助手席の祥子は、サングラスをかけて窓の外を見ていた。
陽はすっかり傾いていて、フロントガラス越しの景色がオレンジ色に染まっていた。

後部座席では、リコが脚を投げ出して眠っていた。
時々、シートに頭がぶつかって、そのたびに小さく顔をしかめる。
佐山はその隣で、窓に腕をあずけていた。

外を見ていたが、景色はあまり頭に入っていなかった。
浮かんでは消える水の感触と、あの一瞬の唇の記憶が、波のように戻ってきていた。

「暑い?」

助手席の祥子がそう言った。
窓の外を見たままだったが、声の調子が少しだけ後ろへ向いていた。

祐介がハンドルを握ったまま答える。

「え? まあちょっとだけ。冷房強める?」

「ううん、大丈夫」

それきり、また静かになった。
風だけが入ってきて、ラジオの音が少し遠のいたように聞こえた。

佐山は窓を少しだけ開けて、外の風を受けた。
髪が額に張りつく。
冷房の風と混ざって、海の匂いがまだどこかに残っていた。


道は空いていて、街の灯りが窓の外を横切っていった。
リコは完全に寝落ちしていて、助手席の祥子はサンダルを脱いで膝を抱えていた。
祐介はハンドルを握ったまま、ちらりとミラーを見た。

「このあと、ちょっと飲みに行くか?」

唐突にそう言った。
声の調子は軽かったが、ちゃんと空気を読んで投げた誘いだった。

祥子が反応する。

「行こう」

それだけ。間髪なかった。

佐山は笑いながら、肩を軽くすくめた。

「タフだな、ほんと……でも、行く」

誰もそれ以上何も言わなかった。
祥子の髪が揺れて、そこに夏の匂いがまざっていた。