波:3話

少し離れたところで、祥子が赤い浮き輪に身をあずけていた。
波の揺れに合わせて、体がゆっくりと上下している。
濡れた髪が頬にまとわりつき、それを払う指先が一瞬だけ陽にきらめいた。

そのまま片手を浮き輪の縁にかけ、目を細めながら顔を上げる。
唇がわずかに開いて、何かを言いかけたように見えた。
そのタイミングで目が合った。

「ねえ、あれ──あのブイまで、行ってみない?」

声は小さかったが、まっすぐに届いた。
佐山は少しだけ間を置いて、うなずいた。
波間に揺れる赤と、彼女の白い肌と、濡れた髪の黒。
どれも静かにまとまっていて、何も足りないものがなかった。

 

祥子が浮き輪を支えながら、ロープの端を差し出してきた。
濡れた指先から落ちた水滴が、陽を弾いて一瞬だけきらりと光る。
顔には薄く笑みがあったが、それは波に紛れて揺れて見えた。

「引っ張って」

声はさらりとしていた。
佐山はその言い方に少しだけ笑いそうになりながら、無言でロープを受け取った。
手のひらに触れた繊維がぬるく濡れている。

ゆっくりと水をかいて進み出す。
浮き輪が数拍遅れて引かれ、背中にその重さがかすかに伝わってくる。
波がふたりの間を押したり引いたりして、一定の距離を保っていた。

「……気持ちいいね、こういうの」

後ろから声が届いた。
潮の音と混じって、耳の奥に残る。

「うん、いいね。久しぶりに泳いだ」

振り返らずに答えると、ふいに背中に風が抜けた。
その隙間を埋めるように、祥子の声がもう一度届く。

「佐山、泳ぎうまいね」

「昔、ちょっとやってたんだ」

波が静かに揺れ、日差しが水面を細かく照らす。
佐山の肩をかすめて、小さなしぶきが跳ねた。

「岸から見ると、ふたりだけで流されてるみたいに見えるかもね」

祥子がそう言ったとき、佐山はわずかに振り返った。
浮き輪の上で彼女は頬に髪を貼りつかせたまま、遠くの岸を見ていた。
目のあたりだけ、やけに光っていた。

「そうかも」

「うん。でも、ちょっとだけ面白い」

彼女は笑いながらそう言い、水面に指を差し入れた。
しぶきは立たず、ただ揺れが広がっただけだった。

言葉が途切れたあと、浮き輪が少しだけ近づいた。
ロープが一度たるみ、佐山の腕にぬるい重さが触れた。

「……変な感じしない?」

その声は、さっきより低かった。
水と空気のあいだに、少しだけ温度差があった。

佐山は小さく息を吐いて、ゆっくりと振り返った。
祥子はまっすぐこちらを見ていた。
目は細く、でも揺れてはいなかった。

「するけど、悪くない」

一瞬、彼女は笑いかけたようだったが、そのまま視線を落とした。
水面を見つめながら、ぽつりと続けた。

「今まで、そんなに話したことなかったのにね」

佐山は返事をしかけて、口を閉じた。
祥子が、少しだけ浮き輪に身を預け直す。

「佐山ってなんかさ……安心するんだよね。なんでだろ」

言いながら、顔は上げなかった。
水に映る陽の反射が、彼女の顎の下でゆれていた。

佐山はそのまま、ロープを手繰り寄せるようにして、ほんの少しだけ距離を詰めた。

ブイに手をかけて、佐山は静かに息を整えていた。
リコの浮き輪が、遠く岸際に小さく揺れている。
水の抵抗がじわじわと腕に残り、肺の奥に冷たい海の空気が入り込んでいく。

少し離れたところで浮き輪に乗っていた祥子が、ふいにそれを外した。
水の音が、短く、すぐ近くで鳴った。
濡れた肌を滑るように、波がふたつ、重なって消えた。

「佐山」

名前だけで呼ばれたことが、なぜか腹の奥に残った。
祥子がゆっくりと泳ぎ寄ってきて、ブイの反対側に手をかける。

顔と顔の距離は三十センチもなかった。
濡れた髪が頬に張りついている。
海水のにおいが、彼女の肌のすぐ近くから立ちのぼる。

目線を合わせるには、ほんの少し顔を傾けるだけでよかった。

「リコに、彼女と別れたって聞いたけど──なんで?」

祥子の声は、波に紛れそうなほど静かだった。
でも、それは偶然ではなく、狙いすました柔らかさだった。

佐山はすぐには答えなかった。
水面の反射が揺れて、目を細めるふりをした。
視線を外さずにいると、答えを持っているように見えてしまう気がした。

「……まあ、いろいろ」

あえて目を逸らすこともせず、ただ淡く返した。
それ以上は聞かないでほしいという空気を、言葉のトーンで包んだ。

祥子はそれに気づいたような、気づかないふりをしたような目をしていた。
そして、水の上でほんの少しだけ笑った。

言葉が途切れたあと、しばらく波の音だけが続いた。
陽が少しだけ傾きかけ、海面の色が深くなっていく。

不意に、少し高めの波がひとつ来た。
ブイがゆっくり持ち上がり、それにつれてふたりの身体も上へと運ばれる。
ほんの一瞬の浮遊感のあと、すとんと落ちるように水面が戻った。

その刹那、祥子の脚が佐山の腰にふれた。
気づいたときには、すでにそのまま絡まっていた。
ブイに片手をかけたまま、向かい合うかたちで、祥子の膝が水中で彼の腰に回っていた。

一拍遅れて、佐山の喉が鳴った。
言葉が出る前に、海水の重さが肩に沈んでいた。

祥子は表情を変えなかった。
ただ、呼吸だけが少し近く、波の余韻が肌にまとわりついていた。

「え……何?」

佐山はそう言った。
けれど、声にとがりはなかった。
水に沈んだままの呼吸が、そのまま口をついて出たような響きだった。

祥子は脚をほどこうとしなかった。
片手でブイに残していた支えをゆっくり離し、かわりに佐山の肩に手を置いた。
その手のひらは、水のぬるさを通しても、明らかに熱を持っていた。


ふたりの体が、水の上でまっすぐ向き合った。

近かった。
目の奥まで、光が届きそうな距離だった。

「顔、赤いよ」

祥子が言った。
笑いながら。
けれど、その声は、どこか深く沈んでいた。

唇がかすかに触れた。
頬にか、あるいはそのすぐそばに。

佐山は、目を閉じなかった。
閉じたら、すべてが流れてしまう気がした。

自分がどういう顔をしているのか、分からなかった。
波に揺られて、ただ視線だけを保っていた。

祥子はその顔を見つめたまま、しばらく動かなかった。

波はゆっくりと揺れを戻していた。
水面が平らに近づくたび、ふたりの身体の距離が静かに詰まっていく。
祥子の脚はまだ佐山の腰に回ったままだった。
その内腿が、ときどきわずかに強くなる。

視線はずっとぶれなかった。
祥子の目は、佐山の顔をまっすぐにとらえていた。
でも、その奥には、何かを測っているような沈黙があった。
光の加減で、睫毛の影が頬に落ちていた。

頬には、ほんのわずかな赤みがあった。
陽のせいだけではなかった。
それは、海水が冷たいほど、余計に浮かび上がる熱だった。
近づけば近づくほど、わかってしまう温度。

呼吸の間に、肌が少しずつ濡れたまま乾いて、また濡れた。
その繰り返しの中で、彼女の目だけが揺れなかった。

「……前の彼女のこと、まだ考えてるでしょ?」

祥子がそう言ったとき、目は逸らさなかった。
声はまっすぐだったが、どこか深く沈んでいた。
問いというより、すでに知っていることを口に出したような言い方だった。

佐山は言葉を探そうとしたが、口の中が少し乾いていた。
波が一度、ふたりの肩の高さまで持ち上げたあと、すっと引いた。

その隙間で、祥子が言った。

「私が、上書きしてあげる。……私を見て」
そのときの声は、かすかに震えていた。
でも、それを隠そうとはしていなかった。
頬の熱が、波に触れている部分とそうでない部分をはっきりと分けていた。

佐山の喉が詰まる。
視線だけが動いて、彼女の頬から、濡れた睫毛の縁、そして目の奥へと移っていく。
何かが始まる手前で、ふたりの呼吸が同じ温度になる。
顔は動かない。けれど、もう後戻りはできない空気がそこにあった。

祥子の髪が肩から滑り落ち、水面に触れて薄く張りついた。
その動きにあわせて、わずかに波が揺れる。
視線はぶれず、距離も変わらない。けれど、そのままのかたちで、確かに境界を越えていた。

何も言わなかった。
佐山も祥子も、言葉を選ぶより先に、沈黙を受け入れていた。
波がひとつ、ふたりのあいだを静かに越えていく。
そのとき、ふたりの間にはもう、“これまでと同じではいられない”空気だけが残っていた。