波:2話

砂の照り返しが強く、目の奥がじんと痛んだ。
焼けた粒がサンダルの縁に入り込み、歩くたびに熱がじわじわと伝わってくる。
その横で祐介は、早足で歩いていた。
白いTシャツはすでに脱ぎ、迷彩のハーフパンツに日焼けした上半身がむき出しだった。

肩から腹にかけて無駄なく筋肉が走っていて、歩くたびに背中の輪郭がしなやかに動いた。
ボクシングをやっているのが誇りで、身体はその証明みたいなものだった。

「この時間の太陽、いいな」
そう言って祐介は両腕を軽く回す。
意識していないふうを装って、動作の中で筋肉の輪郭を際立たせる。
自分の体が他人の視線を引くことを、彼はちゃんとわかっていた。
むしろ、そのためにここまで来たといってもよかった。

佐山は少し遅れて歩き、開けたシャツのすそを風がはらっていった。
黒いハーフパンツに水色の半袖。
海はまだ遠くに青く、近くでは浮き輪やパラソルの色がまばらに揺れている。

すれ違った若者グループの一人が、一瞬目を見張って、声を潜めて笑った。
「やば……格闘家かよ」
冗談とも本気ともつかない声が風に乗って届いた。
祐介は聞こえていないふうを装いながら、ほんのわずかに口元をゆるめた。
その小さなニヤつきは、たぶん自分でも抑えきれなかったのだろう。

目の前に広がる海は、遠くまで続いていて、空との境目が曖昧だった。
その真ん中を、祐介の背中が切り裂くように進んでいく。

この日、彼には何かしら“見せたいもの”があったのだと、佐山は思う。
それはきっと、自分に向けたものではない。

海の家のほうから、二人並んで歩いてくるのが見えた。
砂に残った足跡をたどるように、リコと祥子が話すでもなく肩を並べて進んでくる。

リコはバスタオルを肩にかけたまま、素足の歩き方が軽かった。
黒いビキニは無地でシンプル。
身体の輪郭に無理がなく、よく慣れた服を着ているみたいに自然だった。
肩のあたりだけうっすら赤くなっていて、陽を受けた皮膚が少し光っていた。

祥子は、その隣で特に何かを意識しているふうでもなかった。
白いビキニ。
布地の淡さが肌に柔らかく馴染んでいて、輪郭よりも空気が先に動く感じがあった。
足取りはゆっくりで、歩くたびに髪が肩からずれていく。
ときどき指先で押し戻しながら、それでもどこか整いすぎないままだった。

距離にして十数メートル。
でも、二人の歩きが近づくたびに、こちらの空気がすこしずつかたちを変えていくのがわかった。

「お待たせ」
リコが一言だけそう言って、タオルを無造作に広げる。
祥子も隣に腰を下ろし、髪をゴムで束ね直しはじめた。
その動きが終わるまで、佐山は何も言えなかった。

白いビキニは陽に透けるほど薄く、布の柔らかさが肌の色をほのかに拾っていた。
脚は細く長く、足首に巻かれた金のアンクレットが静かに揺れている。
水着の露出は控えめとは言えなかったが、不思議と押しつけがましさはなかった。
むしろ、そこにいることが最初から決まっていたような自然さがあった。

祐介がその姿を横目で捉えながら、声を潜めるように言った。
「……すごく、似合ってる」

祥子は手を止めて振り返り、ほんの少し目を細めた。
「ありがとう」
短く、それだけだったが、祥子の笑みは柔らかく残った。
祐介に向けたはずの言葉だったが、視線は少し遅れて佐山の方にふれた。
すぐに逸らすでもなく、確認するように止まったわけでもない。
ただ、そうなっただけ――という顔だった。

髪を肩の上でかきあげて、うなじに指を添える。
その仕草に無理はなく、むしろ涼しさを探すような動きに見えた。
佐山は何も言わず、指先で砂をひと撫でした。
そのざらつきの感触が、なぜか少し長く残った。

ふと、隣に目をやる。
リコがペットボトルの水を飲んでいた。
黒の水着に覆われた小柄な身体。
その腹に、はっきりと六つに割れた筋肉が浮かんでいた。

「……それ、毎日鍛えてんの?」

リコはペットボトルを口から離して、やや間をおいて返した。
「中二からずっと、毎日五十回。ボーカルは腹筋が命なんで」
さらっと言いながら、タオルを畳んで膝に乗せた。

佐山がもう一度、つい視線を戻してしまったのを察したのか、
リコは口角だけ上げて言った。
「……エロい目で見んなよ」

リコがそう言って、口元だけ笑った。

そのひと言で、祐介が吹き出し、祥子もくすっと笑った。
タオルの端を指でつまんだまま、肩を小さく揺らしていた。
砂浜の空気が軽くなる。
佐山は苦笑いを返した。
何か言い返すには遅すぎて、ただ曖昧に笑ってみせた。

「てか、俺のもけっこうすごいんだけどな」
祐介がそう言いながら、両腕を軽く持ち上げ、腹にぐっと力を入れる。
すでに上半身は裸で、その筋肉は見えているのに、わざとらしく体をひねって角度を変えてみせる。
肩のあたりを軽くはたいて、無言でアピールしているのが伝わってきた。

祥子が笑った。
「すごい、かっこいい」
そう言いながらスマホを取り出し、動画モードで祐介の動きを追い始める。
少し身を引いて、画角を整えるようにしながら、笑いをこらえるように撮っていた。

リコも隣でスマホを構えていた。
「保存確定」
画面を見ながら、にやりと小さくつぶやく。

祐介はますますノッてきて、シャドウボクシングを始めた。
祥子が笑いながら言った。
「インスタに載せよ、今日のハイライト」
その言葉に、祐介がさらにポーズを決め、ひときわ派手に腕を振った。

その一連のやり取りが、波音の中にすべりこんで、砂浜の空気がもう一段明るくなった。

 

「そろそろ泳ぎ行かない?」
リコが立ち上がり、膝についた砂を軽く払った。
黒のビキニは肌に沿い、光を受けてところどころに張りつくような艶があった。
余計な装飾はなく、引き締まった体の線がそのまま浮かび上がっていた。

「浮き輪借りてきて。二つ」
言いながら、佐山と祐介に視線だけ向ける。
言い方はいつも通りだったが、場の空気をすっと動かすタイミングだけが、的確だった。

 

リコは青い浮き輪に腕をかけて、波の揺れに身を任せていた。
祐介はその横で、水を蹴り上げてしぶきを飛ばしていた。

「冷たっ!」
リコが一言だけ言って、すくった水を祐介にかけ返す。
祐介は顔を背け、「おい、マジやめろって」と叫びながら笑う。
笑いながらも、一歩深く踏み出したとたん、足元が沈んでバランスを崩した。

「あ、やば、ムリムリムリ!」
祐介が声を上げて、慌てて浅瀬へ引き返す。

両手で水を払いながら「ふぅ……」と息を吐いた。

リコがそれを見て、浮き輪の上から声を飛ばす。
「おいおい、泳げないのかよ。だっせぇ」
にやにやしながら、わざとらしくため息をつく。

祐介はすぐさま顔を上げた。
「お前は泳げんのかよ」

「うるせぇ」
リコが一言だけ返して、手ですくった水を祐介に思いきりかけた。

「おわっ、冷っ!」
祐介が跳ねるように避けようとして、さらにしぶきが立つ。
笑い声が波に混じって広がった。

佐山はその様子を見ながら、水の中に体を沈め、ゆっくりと泳ぎはじめた。
手のひらが水を切る感触に、ふいに昔の海の重さが重なった。

あのときも、同じように水に浮かんでいた。

隣を泳いでいた恵の姿が、静かに浮かぶ。
整ったフォームだった。
肩から腕にかけての動きが無駄なく、水面の揺れに一切逆らっていなかった。
小さく息継ぎをするたびに、顔を半分だけこちらに向けて、すぐにまた戻す。
その横顔に、何も考えていないような、あるいはすべてをわかっているような静けさがあった。

陽の光が波に砕けて、海面がきらきらと細かく跳ねていた。
その光が恵の肩や背中に散って、まるで体が発光しているように見えた。
髪は水を含んで重くなり、肩に沿ってぴたりと張りついていた。
その濡れた髪から、ぽたりぽたりと水が落ちていくのを、佐山は黙って見ていた。

笑っていたわけでも、何かを話していたわけでもない。
ただ、そこにいた。
それだけの記憶なのに、今も手の中に残っている気がした。