波:1話

@shokochoco113
12月8日
(ベッドの上。しわのついた掛け布団と、手に握ったスマホの影。部屋の灯りは消えていて、画面だけがかすかに光っている)

理由なんて、いらなかった。
わたしは、ただいっしょにいたかっただけなのに。
わかってるつもりだったのに、
ちゃんと、って思ってたのに、
なんでこんなに、苦しいんだろう。

#ごめんねって言われても
#わたしはなにも終わってない
#夢も気持ちもちゃんと応援してたのに
#もうなにが正しかったのかわからない
#今日だけはちょっと無理かもしれない

 




金縛りにあうのは、決まって深夜二時を過ぎたころだった。
冷房の音だけが部屋を満たしている。薄い掛け布団の端が足元でよれて、くるぶしのあたりをかすかに冷やす。その感覚が、眠りと覚醒の境界線を曖昧にする。

目を開けても、視界はいつもと変わらない。カーテンの隙間から街灯の光が斜めに差し込んで、壁の上を細く照らしている。何かがそこにいるわけじゃない。
でも、目を閉じると、影のようなものが胸の上にのしかかってくる。息をするのが億劫になるほど重くて、ただ、音のない圧力だけが残る。

佐山は、それが幽霊とかそういうものではないと分かっていた。
むしろ、脳のバグみたいなものだと思っている。夢と覚醒のあいだに引っかかった思考が、身体を閉じ込めるのだと。

だとしても、疲れていた。
駅からの帰り道、コンビニの袋を提げた手の中身の重さで、それを実感する。冷たいペットボトルの輪郭が、掌の中でじんわりと熱を持っていく。

この生活に慣れるには、もう少し時間が必要なのかもしれない。
誰に言うわけでもなく、そう思いながら、佐山は夜の階段を静かに上がった。

 

家から追い出される形で、一人暮らしを始めた。
もともと部屋にいる時間の長い高校生活だったから、ひとりの時間自体にはそれほど違和感はなかったはずだ。でも実際に始まってみると、夜の静けさが異様に重く感じられた。

駅から徒歩七分のアパート。南向きでロフトつき。
初めての部屋は思ったよりも音が響いた。
冷蔵庫のモーター音や、階下の洗濯機の振動。夜になると、誰かのテレビの笑い声が壁越しにぼんやり聞こえる。

大学とバイトの繰り返しで、時間は自然に流れていく。
新しい友達もそれなりにできた。昼休みに一緒にパンをかじったり、課題の答えをこっそり写させてもらったり。
バイト先では、年上の先輩に飲みに誘われることもある。
何かが足りないと感じることはなかった。ただ、ふとした瞬間にだけ、昔の景色が戻ってくる。

 

たとえば、電車の音が耳に残ったとき。
昼の光がカーテン越しに差し込んだとき。
思い出す場面はいつも決まっていた。

 

電車の窓は少しだけ開いていた。
そこから入る風が、額にかかった髪をそっと揺らす。
恵は窓にもたれるように座って、まぶたをうすく閉じていた。
髪はまとめず、濡れたように肩に流れている。
車内のざわめきは遠く、レールの継ぎ目を越えるたび、体がかすかに揺れた。

「……もう、潮の匂いするね」

小さな声だった。
でも、その声だけが耳に残る。
隣で聞こえた呼吸のリズムと、言葉の温度が同じだった。

駅を降りると、陽が濃かった。
白いシャツの袖を捲りながら、恵は小さく肩を回した。
足元のサンダルが、乾いた音を立てる。
海の方から風が吹いてきて、シャツのすそがふわりと浮いた。
その下、肌の色が少しだけ透けて見えた。
水色。明るいけれど、どこか影のある色だった。

波打ち際で、恵はサンダルを脱ぎ、裾をつまんでそっと水に足を入れた。
「冷たいね」
振り返って笑うその目は、少し眩しそうだった。
太陽に反射した波が、水着の布に細かい光を散らしていた。
肌に貼りつく濡れたシャツの感触が、彼女の動きを少しだけ慎重にさせていた。

青いかき氷は、氷の粒が溶けて、唇の端をゆっくり染めていく。
「……うわ、キーンてきた」
スプーンをくわえたまま、眉をしかめる。
でも、すぐに笑って、「でも、おいしい」と続けた。

その仕草がやけに静かで、なぜか印象に残った。

帰りの電車。
窓の外はもう夕方で、雲の輪郭が溶けかけていた。
恵の髪はまだ少し湿っていて、首筋に軽く張りついていた。
そのすぐそばから、石鹸の匂いがした。
肩が、すこしだけ寄ってきた。
触れるでもなく、離れるでもなく。
ただ、そういう距離だった。その日の記憶は、色と匂いと温度で残っている。
言葉は、あまり覚えていない。

それでも、ときどき思い出す。
思い出すたびに、もう二度と届かない場所にあるとわかる。
それが静かに胸の奥に沈んでいく。
波立ちではなく、沈殿。
そんなふうに、感情が重たくたまっていく。

 

梅雨が明けて、七月に入った。
空の白さが強くなり、歩道の照り返しがじりじりと肌を焼く。
そんな午後、祐介から「海、行かない?」というメッセージが届いた。
誘うにしては、妙に素っ気ない文面だった。

あとで聞いた話では、本当は祥子とふたりで出かけるつもりだったらしい。
けれど、祥子に「リコとか佐山も誘ったほうが楽しいよ」と言われたらしく、それでしぶしぶ声をかけてきたようだった。

泳ぐのは好きだ。断る理由もなかった。
バイトのシフトも空いていたし、暑さに背中を押されるように「いいよ」とだけ返した。
リコにも話が通っていて、「ちょうど新しい水着買ったとこだから」と気軽に乗ってきた。

行き先は勝浦になった。
祐介が「前に家族で行ったことがある」と言って、海もきれいで、道もなんとなく覚えてるから運転は任せてくれ、という話だった。
誰も異論はなかった。

細かい予定は決まっていなかったが、祐介は「とりあえず海入って、なんか食って、あとは適当に過ごせばいいだろ」と言っていた。

その“適当さ”が、佐山にはちょうどよかった。