祐介の車の中はエンジンを切っていて、窓の外ではコンビニの白い照明が静かに滲んでいた。車内灯は消えていて、三人の顔は外からはほとんど見えなかった。
運転席に祐介、助手席にわたる。佐山は後部座席の真ん中にいて、少し前に体を傾けていた。
「……で、話って?」
祐介が静かに切り出した。わたるは短くうなずいた。
「ナンパ野郎二人を捕まえて、俺を拉致した連中に差し出す。あいつらが本当に欲しかったのは、そのクズどもだから」
佐山が小さく息をついた。「……無事じゃ済まねえな」
「それでいい。むしろ、それしかねえ」
わたるの声は押し殺していたが、その分だけ確かな怒気があった。
「で、その後は?」
「そいつらに渡して終わりじゃねえ。俺を拉致った連中には、あとで俺のやり方でけりをつける。段階を踏むだけだ。今はまず、次の被害が出る前にナンパ野郎どもを見つけて、こっちが先に拉致る」
佐山がゆっくりと、手のひらを握った。
祐介は正面を見据えたまま、唇の端をわずかに動かした。
「行こう。そいつら、終わらせよう」
わたるが小さくうなずいた。
「まずは、正蔵に会いに行く」
畑と雑木林、住宅が斑に広がるエリアに、正蔵の家はあった。周囲の道路は細く、ところどころ雑草に縁取られている。
古びた平屋の前には、無造作に置かれた単車のタンクやタイヤが転がっていて、その隅に、色褪せた「けろちゃん人形」がぽつんと立っていた。薬局の前からでも逃げ出してきたようなその姿は、この家の時間の止まり具合を象徴していた。
「おーい、いるかー」
わたるの声に応じて、縁側の引き戸がガラリと開く。正蔵が出てきた。ジャージのズボンに薄手の長袖、足元は裸足。髪は寝ぐせのままだ。
「……おう。佐山もいるのか。珍しいな」
三人は軽く会釈を交わす。正蔵は目を細めながら庭に降りてきた。
「話って何だよ。立ち話でもいいか?」
「構わねえよ」
そう言った正蔵は、少しだけ考えるように顎に手をやり、それから呟いた。
「……ちょっと待ってろ」
そう言い残して家に戻ると、数分後、彼は缶を四本持って戻ってきた。黄色と黒の縞模様。マックスコーヒーだった。
「ほらよ。よく冷えてっから」
缶を手渡され、わたると祐介は思わず視線を交わす。
「……うわ、マジか」
二人は恐る恐るプルタブを引き、口をつけた。
「……甘っ」
「うわ、なにこれ……舌に絡みつく」
正蔵はうまそうに一口、そしてもう一口飲んだ。
「うまいだろ? 甘くて脳みそバグる」
「佐山、お前も飲めよ。遠慮すんな」
正蔵の一言に、佐山も少しだけ顔をしかめながら缶を開けて、口をつける。
「……甘いな」
四人は顔を見合わせて、同時に笑った。
マックスコーヒーの甘さが口に残るまま、わたるは庭先に立って静かに口を開いた。声に飾りはなかった。
「……俺、拉致られたんだ。女絡みでな。ナンパで女を暴行したやつらと間違われて」
正蔵が缶を持ったまま、目を細めた。
「マジかよ」
「ほんとに知らなかった。でも、そいつらの仲間の女が被害に遭ったらしくて、それで一方的に決めつけられて……。囲まれて、車に押し込まれて、殴られて、最後は森に捨てられかけた」
祐介と佐山は無言で聞いていた。わたるの声は淡々としていたが、その奥にある怒りは明確だった。
正蔵は少し口を開けて息を吐いた。缶の縁に指を沿わせながら、ゆっくりと言った。
「お前が拉致られてたのは知らなかった。でも最近、女の子に無理やり手ぇ出して逃げたって話、何件か聞いてんだ。似たような手口でな……」
わたるはうなずき、目を細めた。
「ルール違反どころじゃねえ。放っとけねぇよ、こんな連中」
彼の声がほんの少しだけ低くなる。
「もし……リコが、そんな目に遭ったらって考えたらさ。俺だって、そいつら拉致るしかなくなる」
その言葉には何の演技もなかった。胸の奥から出た怒りだった。祐介はわずかに顔をそむけ、佐山は視線を落としたまま拳をゆっくり握った。
しばらく沈黙が落ちたあと、正蔵がポケットからスマホを取り出した。
「……兄貴なら、何か知ってるかもしんねえ」
通話画面を見つめたまま、少しだけ間を置いてからボタンを押す。
「もしもし、兄貴。ちょっと、聞いてほしい話がある」
その声は、昔と変わらぬ“番長”の口調だった。けれど今は、静かな怒りを背負った、大人の声だった。
通話のあと、正蔵はスマホを切って、庭先で缶を握ったままのわたるたちを見た。
「……兄貴、知ってた。というか、もう動いてたらしい。例のナンパ野郎二人、確保済みだってよ」
「マジかよ……」
祐介が驚いたように言う。佐山は目を細めた。
「それで……?」
「話したいってさ、わたると。すぐ来いって。隠れ家、俺が案内する」
その言葉に三人はうなずき合い、すぐに車に乗り込んだ。
車内は無言だった。舗装の荒れた細道を進むにつれて、窓の外に広がる雑木林が車体を包み込んでいく。
しばらく進んだ先、林の切れ目に古いプレハブの平屋が現れた。周囲には埃をかぶった外車と、立てかけられたままのサーフボード。使い込まれた敷地は整っていたが、どこか気配が沈んでいた。
車を停めた刹那、プレハブのドアが静かに開いた
現れた男は、日焼けした肌に肩まで伸びた髪を緩く後ろで束ね、サングラスを頭に載せていた。見た目はラフなサーファーに見えたが、白いシャツと革靴は高級品で揃えられていた。着崩しているのに、どこにも隙がない。沈黙がそのまま威圧になる男だった。
「……おう、わたる。久しぶりだな」
平蔵の声は低く、落ち着いていた。
「お久しぶりです」
わたるが頭を下げ、祐介も続いた。
平蔵の目がふと、佐山に止まった。
「……どっかで見た顔だな?」
独特の間を置いて、やや鋭く尋ねた。
わたるがすぐに答えた。
「佐山。中学からのツレで、今は俺らのバンドでギターやってます」
平蔵はほんのわずかだけうなずいた。そして短く言った。
「お前も入れ」
その口調は柔らかくも、命令だった。佐山は無言でうなずいた。空気に、静かな重みが落ちた。
蛍光灯が、低く垂れた天井の下でじわじわと明るかった。
床に縛られた男がふたりいた。両手は背中に縛られ、口には布が巻かれていた。かすれた呼吸音だけが、かすかに聞こえていた。顔の色は悪かった。二人とも目を開いていたが、何を見ているかは分からなかった。
部屋の隅に立つ男がナイフを持っていた。長く、無骨なサバイバルナイフだった。無言で手の中に握り、刃をかすかに揺らしていた。
平蔵はその前に立っていた。しばらく無言だった。
「二度と、くだらねえ真似ができねえように、こいつらのくだらないモノを切り落とす」
ゆっくりとそう言った。誰に言うでもなく、誰に聞かせるでもなく。
ナイフの刃が鈍く光った。
「こんな厳ついナイフ、たぶん必要ねえけどな」
口だけが笑っていた。目は動かなかった。縛られた男たちは、それを見上げていたが、なにも言わなかった。言える状態ではなかった。
佐山がじっとふたりを見ていた。何も言わず、ただ見ていた。
手のひらに汗が滲む。頭の奥で、何かがざらつく。胸の内側が鈍く熱を持っていた。
そのときだった。
平蔵がゆっくりと佐山の方へ手を差し出した。腕は途中で止まり、開いた掌が空中に浮いたまま静止する。
その動きに、佐山の視線が引き寄せられる。
「……勝手な真似はするな」
言葉は低く、抑えられていたが、迷いはなかった。掌はすぐに引っ込められ、空気に緊張だけが残された。