沈む音:最終話 火を殺す

わたるが声を出すまでに、少しだけ間があった。

「話、してもいいですか」

平蔵は頷いた。返事はそれだけだった。

「……俺を拉致った埼玉の連中、平蔵さんの身内ですか」

平蔵はすぐには答えなかった。少しだけ顎を引いたまま、口を閉じていた。

「違う。だが、繋がりはある」

わたるは小さく頷いた。平蔵は続けた。

「うちの身内もやられてる。向こうの身内もだ。こいつらに」

誰も見下ろさなかった。

「被害者は一人や二人じゃねえ。難しい問題だ。埼玉の連中に渡すかもしれない。けど……タダじゃねえ。交渉の材料にはする」

それは決定だった。説明ではなく、通告だった。

しばらくのあいだ、誰も何も言わなかった。

 

わたるがやがて、静かに言った。

「……わかりました」

平蔵は頷かなかった。けれど、次のことを口にした。

「それと、お前の車。修理代と治療費、慰謝料。それも全部、俺が話を通す。それでいいな」

わたるは少しだけ視線を下げた。言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。

「……お願いします」

それきり、誰も言葉を発しなかった。ナイフの刃先が、どこにも向けられずに静かに手の中で止まっていた。空気は重く、室内の湿気が皮膚に貼りついていた。時計の針の音だけが、遠くに響いているようだった。

 

「わたる」
平蔵はゆっくりと名前を呼んだ。
「くれぐれも……自分たちで復讐なんて、考えるなよ」

その声は優しかった。何の力も込めていない、普通の声だった。

 

「わかりました」

わたるはそう言った。
口調は静かで、頭を軽く下げる仕草も添えられていた。
礼儀だった。
だがその内側では、まったく別の光景が広がっていた。

ショベルカーのエンジン音が、土を巻き上げる音が、脳内で静かに鳴っていた。
冷たい夜明けの空気の中、山奥の傾斜に、深く掘られた五つの穴。
そこに、あの五人をひとりずつ、手足を縛ったまま落としていく。
命乞いをする男たちを眺めながら、タバコをゆっくりと吸う。
タバコを穴の中に放り込み、ショベルカーの運転席に座り、確実に操作する。
表情を変えずに、ただ土をかぶせていく。ゆっくりと。

平蔵がタバコの箱を取り出し、蓋を開けた。
だが一本も抜かずに、また蓋を閉じた。

「……お前の親父さんな」

ぽつりと落とされた声は、何の前触れもなかった。

「訳ありの人間でも、やる気があれば仕事を与えてる。失敗したやつ、逃げてきたやつ、全部。見放さねぇ。そういう人間だ」

わたるは黙ったまま、指先を重ねた。

「それはな、誰にでもできることじゃねえ。簡単そうに見えて、実際は難しい。俺はな、あの人をリスペクトしてる。ほんとに。……いなくなって欲しくない人間ってのが、世の中にはいる」

平蔵は、まだわたるの顔を見ない。窓の外、遠くの闇に目をやっていた。
けれど、その言葉の輪郭だけは、なぜか耳に焼きついた。

わたるは気づいた。
父親は、すでに“担保”として差し出されたのだと。

それでもまだ、火は消えなかった。
奥底で、息を殺して燃え続けていた。

平蔵がふと、視線を戻した。

「リコちゃん」

言葉だけが、柔らかく転がされた。
わたるは、無意識に身体の奥を緊張させた。

「……あの子の母親がやってるスナックな。駅のそばの。“ホーム”って名前。知ってるよな?」

平蔵は笑っていた。穏やかに、自然に。
それが、かえって不自然だった。

「評判がいい。ママもリコちゃんも、明るくて、いい店らしいじゃないか。親子で、店を切り盛りして、健気でいいよな。……今度、俺も飲みに行ってみようかと思ってる」

正蔵が小さく吐息を漏らした。「リコは……関係ないだろ」

「いまは、な」

平蔵はそう言って、笑いを引っ込めた。

それっきり何も言わなかった。
言わなかったことが、すべてを言っていた。

わたるの脳内で、ショベルカーのエンジンが止まった。
煙草の火が消えた。
自分の両手が、誰かに握られて動かなくなる感覚があった。
穴は埋まらなかった。
埋めることは、もうできない。

「……わたる」

平蔵が、名を呼ぶ。
その声は、濁りのない水のようだった。

「くれぐれも……自分たちで復讐なんて、考えるなよ」

言葉に力はなかった。
だがそれは、命令でも脅しでもなく、“通知”だった。
もう選択の余地はない、と。
終わったんだ、と。

「……わかりました」

それだけ答えた。

平蔵はそれを聞くと、財布を開いた。
中から万札を数枚抜き取り、折り目を指でなぞりながら、正蔵に差し出した。

「……みんなで飯でも食って帰れ」

そう言って、初めてわたるの目を見た。

何も言わず、ただ、見た。

わたるは、目をそらさなかった。
できなかった。
その視線の中で、自分の中にあった火が、確かに消えていた。

殺された火だった。
踏みつけられ、名もなく消された熱の残り香だけが、胸の奥にこびりついていた。

 

帰りの車は、さっきまでとは違う静けさをまとっていた。

それは張り詰めた緊張の名残というよりも、何かが終わったあとの、静かな余白のようなものだった。

佐山は横に座るわたるの方を一度も見なかった。ただ、どこかで彼の変化を感じていた。
さっきまで、わたるの中には何かが張り詰めていた。目に見えなくても、近くにいると伝わる、棘のような空気。
それが今は、どこか緩んでいた。
力を抜いたというより、力を失ったような、そんな感じだった。

佐山はほっとしていた。
理由は自分でもはっきりとは言えなかった。ただ、あのまま燃え続けていたら、どこかで取り返しのつかないことになっていた気がした。

祐介が、ふと前を見ながら呟いた。

「……マジで、切る気かな」

その言葉に、誰もすぐには返さなかった。

「同情はできないけど、痛いだろうな。……切る方も、きついよな」

わたるが、少し間を置いて口を開いた。

「……俺だったら、“切る”って脅して、やばくて金になる仕事させるな」

その声に、棘はなかった。
ただ、感情の波が引いたあとの海みたいに、平坦だった。

「切るんだったら、しくじったあとでいいし。見込みあるうちは使うよ」

祐介が小さく笑った。

「……どんな仕事があるんだよ」

「さぁね」
わたるは肩を軽くすくめた。

「俺はトラックの運転と、リコバンドのチケットさばき以外には手を出してないから」

窓の外に、朝の光が少しずつ色を濃くしていく。
車内は、またしばらく黙ったままだった。

 

「ところでさ正蔵、次のリコバンドのチケット、何枚いく?」

 

わたるが言った。口調は軽いが、目はどこか真剣だった。

 

「俺は……50はいけると思う」

 

少し間をおいて、続けた。

 

「枚数少ないとさ、箱代がリコたちバンドメンバーの持ち出しになるんだよ。ギリギリでやってるからさ」

 

正蔵が、すぐに応えた。

 

「……俺は100いける」

 

言い終えたあと、少しだけ照れたように笑った。

 

「リコのためなら、な」

 

佐山が口をはさんだ。

 

「でも、客であんまりやばいやつ入れんなよ。前、スキンヘッドでマッチョな外人がFワード連発してて他の客がドン引きしてた……」

 

「あれはやばかったな。次はちゃんと選ぶよ」

わたるが笑う。

 

「なにかあれば、俺たち裏方が頑張るからさ。警備も、案内も」

 

「ついでにコーラスもやってみる?」

 

「……それは無理だな。音外してキムに怒られる」

 

笑いが小さく車内を満たした。その笑いに、何かを押し隠すような響きがあった。

 

車内に少しだけ沈黙が戻ったころ、正蔵が言った。

 

「兄貴、3万くれたぜ。……佐山、リコの家の店、行こうぜ。今日」

 

「今から?」

 

「ああ。リコ、いるか確認してくれよ。……“釣りはいらねぇ”って、リコに言ってみたいんだよ」

 

誰かが吹き出した。つられて、みんなが笑った。

 

けれどその笑いには、少しだけ力がこもっていた。

笑って済ませられる話じゃない。

誰もがそう思っていた。

でも——笑うしか、なかった。

 

それ以外に、今の自分たちにできることが、ほかにあるとも思えなかった。

 

夜の道はまだ続いていた。

前を照らすライトが、かすかな希望のように、遠くへ伸びていた。