夜勤明けの朝、佐山は会社の休憩スペースで缶コーヒーを開けた。配送から戻ったばかりの冷気が体の奥に残っていて、それを温めるように、いつもよりゆっくりと一口を含んだ。窓の外では洗車場のホースが水をはじく音がしていた。
「わたる、昨日から来てねぇんだよな」
隣にいた社員が、汗をぬぐいながらぼそっと言った。
「社長が言ってた。“女のとこにでも入り浸ってるんだろ”ってさ。まぁ、遊ぶのもほどほどにしろってよ」
佐山は返事をしなかった。ただその言葉が、妙にひっかかった。
(わたるに女?)
少し前まで、いつも通り一緒に冗談を言い合って、夜の配送から戻ると缶コーヒー片手にくだらない話をしていた。そんなわたるが――女にうつつを抜かして、会社を無断で休む? それが本当に理由だとしたら、何かが腑に落ちない。
(……あいつ、そんなに無責任だったか?)
その夜。シャワーを浴び終え、洗濯機のモーターが低く回り始めたころ、スマホがテーブルの上で震えた。
「今夜ちょっと行っていいか。話したいことがある」
わたるだった。
佐山はすぐに「いいよ」とだけ返した。短いそのメッセージの裏に、何かいつもとは違う重さがあるような気がした。
夜8時を少し回った頃、アパートのチャイムが鳴いた。ドアを開けると、上下紫の作業着を着たわたるが立っていた。普段と同じ服装なのに、どこかくたびれた印象を受けた。
顔の右側に絆創膏、あごの下には薄く痣。歩き方はゆっくりで、足を少し引きずっているようにも見えた。
「……悪ぃな、こんな時間に」
「いいよ、入れよ」
靴を脱いで上がり込み、わたるは無言で椅子に腰を下ろした。佐山が冷蔵庫から缶ビールを取り出して渡すと、軽くうなずいてそれを受け取った。
「ありがと」
短く礼を言って、プルタブを開ける。しばらく、缶が傾いてから、わたるは深く息を吐いた。
「……一昨日の夕方、洗車してたらよ。いきなり後ろからやられて、ハイエースに押し込まれた」
佐山は缶を持ったまま、黙って聞いていた。
「自分の車も、そいつらの仲間が運転して……一緒に連れてかれた。場所は、埼玉側の湖のそばの空き家。倉庫みてぇな建物だった」
わたるの声は、抑揚の少ないぶっきらぼうな口調だったが、言葉の一つ一つには重さがあった。
「あの白ワンピースの子……あれ襲ったやつと俺を間違えたらしい。そいつらの仲間の女がやられて、それで報復に来たんだと。……俺は知らねぇって、何度も言ったけど、通じなかった」
缶を持った手がわずかに震えていた。佐山は何も言わなかった。
「ハイエースで運ばれてたときに、“今から森に埋めてやる”って言われてよ……隙見て、車から飛び降りた。必死だった。ほんと、運が良かっただけだ」
最後の言葉を口にしたとき、わたるは缶を持ったまま、膝にひじをのせてうなだれた。佐山は少しのあいだ黙っていた。
テレビもラジオもつけていなかった部屋に、夜の音がしんと満ちていた。冷蔵庫のモーター音が微かに聞こえるなか、佐山は缶を置いて、静かにその空気に身を任せていた。わたるの声も、傷も、言葉にしきれなかった恐怖も、そのまま部屋に滲んでいた。
わたる
わたるは仕事を終えて、いつものコイン洗車場に立ち寄っていた。この日は自分の通勤用の軽バンの汚れが気になっていた。週末に人と会う予定もあり、軽い気持ちでハンドルを洗車場へ切った。
紫の作業着の袖をまくり、ホースの水圧を確かめながら、車体に水を吹きかける。乾いたボディに水が走り、汚れを巻き込んで流れていくのを見て、わたるは気持ちよさそうに小さく鼻を鳴らした。
洗車場には他に客の姿はなかった。水の跳ねる音だけがあたりに響き、時おり遠くから車の走る音が重なる。薄曇りの空の下、空気は静かで、いつもと変わらない平和な時間のように思えた。
スポンジで車体をこすり終え、すすぎに移ろうとしたそのとき、不意に背後で靴音が鳴った。
「ん……?」
振り返るより早く、強い力で肩をつかまれた。反射的に身を引こうとしたが、すぐにもう一人が横から腕をねじり上げてきた。バランスを崩し、地面に倒される。
「おい、動くな」
アスファルトに顔が擦れた。痛みより先に、恐怖が駆け上がってくる。次の瞬間には体を持ち上げられ、無理やりハイエースの荷室に押し込まれていた。
車内に押し込まれたあと、背後でスライドドアが閉まる音がした。わたるが必死で顔を上げると、自分の軽バンが、見知らぬ男に運転されて後ろからついてきているのが見えた。
ハイエースの中は薄暗く、どこか湿っていた。前の座席に座る男が振り返り、低く、短く言った。
「白いワンピースの女……忘れたとは言わせねぇぞ」
わたるは、その言葉の意味を理解できなかった。ただ、尋常ではないということだけははっきりとわかった。
車が動き出す。道路の振動が荷室に伝わり、全身にじわじわと広がっていく。思考はまだ混乱していたが、ただ一つ、逃げなければという思いだけがはっきりと胸の奥に残っていた。
ハイエースが止まったのは、静まり返った湖畔沿いの道の脇だった。外から見えない位置にひっそりと建つ古い一軒家。壁はひび割れ、電気も通っていない。鍵を開けた音がした後、わたるは無言のまま建物の中に引きずり込まれた。
床はほこりと砂利でざらついていた。何もないコンクリートの空間に、男たちはぞろぞろと入ってきた。全部で五人。いずれも二十代前半とおぼしき若者たちで、表情には感情の輪郭がなかった。無関心にも似た空虚な顔つきだった。
「……相棒のこと、話せよ。あの女をやった、もうひとりのな」
男の一人が、顔を覗き込むようにして言った。わたるは何のことか分からなかった。ただ、それが何を意味するかは、体が先に察していた。
「俺は……違う……」
“白いワンピースの女”――その言葉には、聞き覚えがあった。佐山や祐介から話を聞いたときの鮮明な記憶が、頭の奥ではっきりと浮かび上がる。けれど、それがどうして自分につながるのか、理由が分からない。
「いや、本当に俺じゃないんだ……何かの間違いだ……」
訴えかけた直後、頬に強い衝撃が走った。倒れた体に容赦なく蹴りが飛んできて、作業着の布越しに痛みが腹に沈んでいく。押さえつけられ、頭を床に打ちつけた。
「……嘘はいいからよ。お前がやったのはわかってる。白い服の女……お前、見覚えあるだろ」
それでもわたるは、必死に否定を繰り返した。だが、その言葉は彼らにとって何の意味も持たなかった。
暴力は段階を選ばずにやってきた。突き飛ばされ、殴られ、靴のつま先が何度もわたるの脇腹をえぐった。脳が揺れるたび、視界がぐらついた。
それでも、わたるは見ていた。歯を食いしばりながら、五人の顔を順番に捉えていった。
目がつり上がった男。耳の後ろにほくろがあるやつ。指に入れ墨を入れた細身の若いの。ピンク色のマスクを顎に引っかけたまま笑っているやつ。靴底のすり減った白いスニーカー――。
(こいつらの顔、全部覚えてやる)
身体はどうしようもなく痛み、意識が遠のきかけても、記憶の中には彼らの特徴がしっかりと刻まれていった。
どこかで、自分の名前が呼ばれたような気がした。だがそれは、声ではなく、頭の中のどこかがそう訴えているだけだった。
(殺される)
そう思ったときには、もう体は震えていた。恐怖に、怒りに、何もかもがごちゃまぜになっていた。ただひとつ、絶対に忘れないという意志だけが、身体のどこかで冷たく燃えていた。
暴力は終わる気配を見せなかった。誰かが蹴りを入れるたびに、体がひきつって跳ねた。殴られれば、視界が白んで、耳鳴りが鳴り響いた。
わたるはそれでも意識を手放さなかった。手放してしまえば、次は命まで奪われる――本能がそう告げていた。
だから彼は、考え続けた。思考を止めなかった。痛みを感じるたびに、頭の奥で「別のこと」を組み立てていた。
ショベルカーのエンジン音が、土を巻き上げる音が、脳内で静かに鳴っていた。冷たい夜明けの空気の中、山奥の傾斜に、深く掘られた五つの穴。そこに、あの五人をひとりずつ、手足を縛ったまま落としていく。命乞いをする男たちを眺めながらタバコをゆっくりと吸う。タバコを穴の中に放り込み、ショベルカーの運転席に座り、確実に操作する。表情を変えずに、ただ土をかぶせていく。ゆっくりと。
「目がつり上がったやつは……一番手だな」
誰にも聞こえないように、頭の中で順番を決めていた。恐怖に呑まれないように。痛みに溺れないように。生きるために。
それは復讐の夢ではなかった。ただ、絶望を押し返すための唯一のイメージだった。耐えるための支柱。体の奥で静かに燃える、一本の芯だった。
(俺は生きる。終わらせねえ)
それだけを握りしめて、わたるはさらに蹴られる身体の中で、奥歯を噛みしめ続けていた。意識はぼやけながらも、冷たく、冴えていた。
空気が張りつめていた。
わたるはハイエースの後部座席の真ん中に座っていた。左右には若い男が一人ずつ。運転席と助手席にも二人。狭い車内に、まとわりつくような沈黙が続いていた。
「……少し前に、湖で他殺体が見つかったってニュース、知ってるよな?」
運転席の男がふいに口を開いた。助手席のやつが鼻で笑う。
「今回の件とは関係ねぇけどよ……まあ、あれは俺らがやったやつだ」
言葉が空気を切り裂くように落ちた。
わたるの胸がひやりとした。声が出ない。ただ、肌の内側で、なにかがゆっくり冷えていくのを感じた。
「お前もよ、意地張ってると、そうなるぞ」
それはただの脅しじゃなかった。過去の“実績”を添えた、確信に満ちた宣告だった。
「なあ……こいつ、本当に知らねぇんじゃね?」
助手席のやつがぼそりとつぶやいた。
「でも女と一緒にいたって話だよな? 関係ねぇはずないよな」
「関係ねぇよ。もういいだろ。埋めちまえよ。時間のムダだ」
その言葉を聞いた瞬間、わたるの中で何かが静かに動き出した。
(マジで殺される)
背筋に冷たいものが走る。それでも、慌てるそぶりは見せなかった。首を少しだけ回し、ドアの内レバーの位置を確認する。体をずらすのはまだ早い。次、停まる瞬間があるはずだ。そこを狙う。
(絶対、逃げ切る)
わたるはチャンスを待った。
前方、フロントガラスの先に見えたのは、明るく照らされたファミレスの光だった。駐車場に車が何台か停まっている。店内には人影。ガラスの内側で、店員がオーダー票を手に歩いていた。
わたるの胸の奥で何かが反応した。
(……ここだ)
車が信号に差しかかり、徐行する。左右の男たちは油断していた。スマホに目を落とし、退屈そうにあくびをしていた。
わたるは唐突に右の男に顔を向けた。目が合った、その一瞬。
「……は?」
言葉が出る前に、わたるは頭を突き出し、額を相手の鼻梁に叩き込んだ。
ゴッという鈍い音。右の男が叫びもせずに後ろへ倒れる。
左の男が立ち上がろうとしたところを、わたるは膝を上げてその脇腹を蹴り上げた。バランスを崩した相手がシートにもたれかかる。足元が空いた。
即座にわたるは体をひねり、スライドドアの内レバーをひっかくように引く。ドアがガタンと開いた。夜の空気が車内に吹き込む。
運転手が振り向いた。「おい、なにやって――」
返事はなかった。わたるはそのまま体をひねり、腰を浮かせ、ドアから飛び出した。
落ちるというより“発射された”。地面に叩きつけられる衝撃。肩が焼けるように痛む。だがそのまま起き上がる。頭は冴えていた。息も整えず、そのまま走り出す。
ファミレスの駐車場の白線が足元を流れる。誰かが振り返った。自動ドアが開いた。制服の店員が立ち上がった。
「助けてくれッ!!」
背後から怒鳴り声。ハイエースのドアが開く音。だが、追ってはこない。わたるは振り返らなかった。ただ光の方へ走った。
駆け込んだ店内の空気は、あまりにも眩しく、暖かかった。誰かの叫ぶ声、誰かが電話を取る気配。
わたるはその場に倒れこむように膝をついた。自分の血の味が口の奥に広がっていたが、それが何よりも、生きている証のように感じられた。