沈む音:3話 見えた夜

「水着買いに行こうよ、一緒に」

祥子がすっと言った声は、今度は少しだけ甘えるような響きを含んでいた。

「買い物行くときは、この車で連れてってあげるよ」

祐介がすかさず言った。ちょっと得意気な響きに、また笑いがこぼれた。木々の間から、月がにじんだ湖がちらりと見えた。夜は、静かに続いていた。

 

佐山は笑いながらも、ふと窓の外に視線を滑らせた。月が木々の隙間を縫うように差し込んで、湖の水面をかすかに照らしていた。何かが引っかかったわけではない。ただ、あまりに静かすぎる夜の空気に、ごくわずかな異物のようなものを感じた。言葉にはならないその違和感が、胸の奥にかすかに触れた、そのとき——

 

「……おい、今……」

祐介の声が変わった。さっきまでの軽さは消え、のどの奥が詰まったような、押し殺した息の音が混じっていた。助手席の祥子が身を起こす。

「何?」

「……白いのが、いる。あそこ……ガードレールの向こう、見てみろよ」

車の進む先、カーブの内側。ヘッドライトが照らす端に、藪の影から何かがふいに覗いた。いや、覗いたというよりも、じっと“そこにいた”。

白く、ぼんやりと滲むような影。それは人のような形をしているのに、どこか現実の質感がなかった。足元が地面に届いていないようにも見え、全身が薄い膜をまとって宙に浮いているようだった。

顔は見えなかった。ただ、闇の中で“こちらを見ている”気配だけが異様に濃く、背筋に冷たいものが走った。

「……マジでやばいって。なあ、見えてるよな? あれ、絶対おかしいって……」

祐介はアクセルから足を離し、がくんとブレーキを踏んだ。車がわずかに前のめりになり、車内の空気が揺れる。

「幽霊だって、あれ。絶対幽霊だって……!」

祐介の声は上ずっていた。ハンドルを握る手が明らかに震えているのが分かった。ルームミラー越しに佐山が前のめりになる。

「またか……」

「だからお前のせいなんだって、佐山。お前が幽霊とか見えるとか言うからさ……俺まで見えるようになったんだよ、ほんとに! 責任取れよマジで!」

「落ち着けって……」

「落ち着けるかよ!」

祐介は呼吸が荒くなり、肩が上下していた。額に浮いた汗が頬をつたい、夜の空気がやけに重たく感じられた。

そのとき——

「ちょっと待って……」

祥子が静かに言った。声の調子が変わった。

「……あれ、人じゃない? 女の子……かも」

後部座席のリコが首をかしげ、身を乗り出す。

「ほんとだ……祐介、止めて。車、止めて」

祐介は何か言いかけたが、指示に従い、ぎこちなくブレーキを踏んで車を停めた。窓の外、まだあの“白い影”はそこにいた。だが近づくごとに、その形が現実のものとして見え始めていた。リコと祥子はためらわずにドアを開け、夜の闇の中へ駆けていった。

 

彼女たちが駆け寄るにつれ、白い影の正体がはっきりと見えてきた。

 

それは、白いワンピースを着た少女だった。だが、その服はあちこち破れ、裾は泥で濡れていた。足には無数の擦り傷があり、髪はほつれて顔にかかっていた。肩がかすかに震えていた。

 

「……大丈夫?」

 

祥子が声をかける。少女はびくりと肩を震わせ、わずかに顔を背けた。

 

リコは何も言わず、しゃがみ込んで少女の足元に目をやった。その目には、ごく微かな怒りの光があった。

 

泥に汚れたすね、片方だけの靴、腕に斜めについた擦過傷。顔を伏せる少女の頬には、乾きかけた涙の跡があった。

 

彼女がここに「一人で来た」とは思えなかった。リコも、祥子も、それを言葉にしなかった。ただ、そう感じた。

 

「大丈夫だから。寒いよね。車に行こう?」

 

祥子が手を差し出すと、少女は少し躊躇ったあとで、その手に触れた。触れた瞬間、指先が小刻みに震えていた。

 

後部座席に戻るとき、祥子は自分のシャツを脱ぎ、少女の肩にそっとかけてやった。下にはチューブトップだけで、肩と細く締まった腰が露わになったが、彼女はまったくそれを気にしなかった。

 

「怪我、してない? どこか、痛いところある?」

少女は顔を伏せたまま、しばらく何も言わなかった。唇がかすかに動いた。

「……いたい……どこか……でも、わかんない……」

声はか細く、かすれていた。喉の奥から引き絞るような響きで、言葉というより息に近かった。

リコが少女の背中にそっと手を添えた。手のひらから、細かな震えが伝わってくる。体温が、妙に低い気がした。

「無理に喋らなくていいよ。大丈夫、もう怖いことはないから」

リコの声は、普段よりも一段低く、やわらかかった。

祥子は一瞬だけ、リコと視線を交わした。それから少女の目線にあわせて、ゆっくりと頷いた。

「ねえ……名前、わかる? 言いたくなかったら、いいんだけど」

少女は小さく首を振った。名前を言いたくないのか、思い出せないのか、それは分からなかった。

「……うん、そっか。じゃあ、無理に聞かない。車に戻って、警察に連絡しようね。ちゃんと、助けてくれる人たちがいるから」

その言葉に、少女はわずかに体を強張らせた。

祥子はすぐに気づいて、静かに付け加えた。

「こわくない。私たちが一緒に行くから。」

リコが、そっと膝を立てて立ち上がり、車の方へ目を向けた。

「……祐介に言って、車近づけてもらおう。歩かせるのも、きつそうだし」

少女の顔はまだ伏せられていたが、二人の声を拒む様子はなかった。かすかに開かれた指先が、衣服の裾をぎゅっと握りしめていた。

祥子はそっと、自分のスマホを取り出し、リコに目配せした。

「電話するよ」

リコは、ためらいなく頷いた。

森の静けさが、少しだけ、現実の重さを取り戻したようだった。

 

 

少女を乗せ、車が再び動き出すと、ヘッドライトの輪からさっきの場所が遠ざかっていった。祐介は一言も発さず、ただ黙ってハンドルを握り直した。

 

後部座席の真ん中に座った少女は、身体を小さく折りたたむようにして肩を縮めていた。シャツの袖口からのぞく腕には複数の擦り傷があり、膝には泥が乾いたままこびりついていた。顎の下に赤く腫れた痕があり、靴は片方だけで靴紐が切れていた、もう一方は裸足のままだった。年齢は祥子たちと大差ないように見えたが、その表情は年齢を越えて、どこか異様に無表情だった。放心というより、何かを“切って”いるような静けさだった。

 

祥子は少女の横に寄り添いながら、自分の脱いだシャツの袖をもう一度そっと引き寄せて、肩を包み直した。

「寒くない? もう少しで着くからね」

優しく問いかけたが、少女は何も答えなかった。ただ、かすかにうなずいたようにも見えた。

 

佐山は窓の外を見ていた。あのとき自分たちが見た“白い影”が幽霊だったなら、どれほどよかっただろう。驚きや恐怖で済むなら、それだけで済むなら——と、そんなふうに思っていた。

 

でも現実は、こうして誰かが実際に傷ついている。血を流し、声を失い、目の前で小さく震えている。そういうものを、ただ見ていることしかできなかった自分が、今、窓の外に視線を逃がしている。それだけのことだった。

闇は深く、けれどその中を、車の灯りがひとすじの道を照らして進んでいた。

 

 

数日後の夜、コンビニの裏手。エンジンを切った祐介の車の中で、わたるが缶コーヒーを一口飲んでから、ぽつりと話し始めた。

「この前の、白いワンピースの子な。ちょっと、事情がわかったわ」

運転席の祐介が横目でちらりと見る。佐山は後部座席にいて、黙ったまま耳を傾けていた。

「知り合いの先輩が、ちょっとやばい筋の連中と繋がっててさ。そっから話が出てきた。あの子……ナンパされて、車に乗ったら、そのまま山ん中連れてかれたらしい」

「……湖の?」

祐介が短く聞き返す。わたるはうなずいて続けた。

「で、“やらせるか、ここで降りて一人で帰るか、選べ”って。そんな選択肢ねぇだろ」

しんとした空気の中、祐介が一度だけ小さく舌打ちをした。

「それ、マジで……?」

佐山の声は低く、抑えられていた。

「他にも何人か、やられてるって。似た手口で。地元のやつららしい。女の子泣かせて、それで終わり。いかれてる。やられた子は警察にもほとんど行かねぇ。怖くて言えねぇように仕向けてんだと」

車内にしばらく沈黙が流れた。祐介はハンドルに手をかけたまま、下を向いてじっとしていた。佐山は窓の外を見ながら、何かを飲み込むように口を引き結んでいた。

しばらく、誰も口を開かなかった。車内はエンジンの音さえないまま、ただ時間だけが流れていた。

「……もしさ」

わたるがぽつりと口を開いた。

「リコが、祥子が、同じことされたら。お前ら、どう思うよ」

その言葉に、佐山はぐっと奥歯を噛みしめた。祐介は視線をフロントガラスに向けたまま、拳を膝の上でゆっくりと握りしめていた。

「……想像すんのも嫌だ」

祐介の声は低く、硬かった。怒りがそのまま言葉の底に沈んでいた。

「……ありえない。許せるわけない」

佐山も呟くように言った。手は膝の上で震えていた。

佐山は目を閉じた。頭の中に、浮かんではならない映像が浮かび上がる。

白いワンピース――リコが普段は絶対に選ばない装い。裾は土で汚れ、片方の肩紐が外れて斜めに垂れていた。膝は擦り切れて、血がにじんでいる。細い手首には泥がこびりつき、指先は小刻みに震えていた。

髪は乱れて、顔に張りついている。頬には傷があり、涙と汗が混じった跡が流れていた。

「……たすけてよ」

声が、か細い。けれどその声が耳に届いた瞬間、心臓の裏側がじんと痛んだ。

リコの黒目がちな瞳が、怯えたまま宙を泳いでいる。笑うときに少しだけ上がる口角も、今は力を失って下がっていた。唇は乾いて、皮が剥けかけていた。

彼女はそれっきり何も言わず、ただ、泣いていた。

佐山の喉がひりついた。胸の奥で、何かがひどくゆっくりと、だが確実に沸き立っていくのを感じた。

想像だとわかっていても、その光景があまりに鮮明で、視界の端がわずかに霞んだ。

(絶対に……こんな目に遭わせる奴らを、許さない)

静かな決意が、息の奥で熱に変わった。佐山は目を開けた。夜の街灯が、車の窓越しに冷たく滲んでいた。



わたるは煙草を揉み消して、無言のまま灰皿の蓋を閉じた。風が入り、煙の残り香をさらっていった。誰も、次の言葉を探せないまま、ただ車の中に怒りと悔しさが静かに立ちこめていた。