沈む音:2話 黒いセダン

大学に入って、佐山にも話をする相手はできた。講義の後、学食のテーブルで昼を共にする顔見知りや、たまに課題を一緒にやる程度の仲間もいた。ただ、それ以上には踏み込まなかった。どこかに、壁のようなものがあった。自分がつくったのか、世界がそうしているのか、判断はつかなかった。

帰る家は一人きりのアパートだった。小さなキッチンと、狭いバルコニー。窓を開ければ遠くの府中街道の音がかすかに届く。深夜に家に戻ると、そうした音すら落ち着いて感じられた。眠りにつくまでのわずかな時間が、日常の中で最も静かな時間だった。

父親の浮気が引き金となり、家族は壊れた。母親は新しい男と暮らしはじめ、佐山には早く自立してくれという態度を隠そうともしなかった。高校を卒業してすぐに家を出た。最初の夜、安アパートの天井を見つめながら、静かすぎる部屋にしばらく目を閉じることができなかった。

学費と生活費は、奨学金とアルバイトでなんとかやりくりしていた。アルバイトは、わたるの父親が経営する運送会社での仕事だった。夜中に出発し、保冷車でコンビニ向けのサンドイッチや総菜を配達する。週に二、三度、深夜の街を無言で走る。

荷室には、わずかにマヨネーズと出汁の混じったような、加工された食べ物の匂いが漂っていた。ラジオの音を絞り、冷たい空気の中をひとり運転する時間は、不思議と嫌ではなかった。

一回の仕事で八時間。報酬は一万三千円ほどになった。わたるの父は、佐山のために効率の良い仕事をあてがってくれていた。口数は多くなかったが、信頼と義理に厚い人だった。佐山は、心から感謝していた。

運送会社では、わたるが二代目見習いとして働いていた。わたるは、昼夜を問わず仕事があればトラックに乗った。早朝の市場への搬入、午後の配達、深夜のルート便まで、時間に縛られることなくハンドルを握っていた。車庫でたまに顔を合わせると、疲れた顔ひとつ見せずに冗談を飛ばした。高校時代と変わらぬ、飄々とした調子だった。佐山のことも、特別に世話を焼くわけではないが、何かとさりげなく気を配ってくれているようだった。

誰とも深くはつながらず、それでもかろうじて切れずに続いている関係。それが、佐山の日々を、かろうじて支えていた。

数日後の夕方、街の西にあるファミレスの駐車場で、祐介が得意げに言った。

「見てくれよ、これ。日産のセダン。黒、フルスモーク、しかも革シート。車高も少し下げてる」

祐介は、高校を出たあと設備会社に勤めながら、プロボクサーを目指していた。昼はユニットバスの取付現場を回り、夜は汗の匂いが染みついたスポーツバッグを片手にジムへと向かう日々。寡黙なところはあるが、リングの上では別人のように攻めの姿勢を崩さない。そんな姿が、時折、仲間内では話題になった。

彼の車は、初めてのボーナスで頭金を払って手に入れたものだった。

 

 

佐山はフロントグリルを指先でなぞりながら、うなずいた。

「いいね、祐介にとても似合う」

「だろ。それで頼みがあるんだけど、初ドライブにはさ、やっぱり女の子乗せたいじゃん。華が欲しいんだよ」

祐介の顔はいつになく真剣だった。佐山が口元に笑みを浮かべると、祐介は少しだけ声を落とした。

「リコ、誘ってくれないか?」

「リコ? いいけど……あいつが華?」

「いや。それと、あの……ほら、ライブのときに来てた子。リコの友達の……」

「祥子ちゃんか」

「ああ。あの子ならさ、絶対華やぐって。リコに祥子ちゃん連れてきてって頼んでくれよ」

佐山は少しだけ眉をひそめたが、確かに祥子の存在感は、派手だった。見た目も、言葉選びも、人の視線を集める術を自然と知っていた。祐介の気持ちは分からなくもなかった。



その夜、車は静かな湖畔の道を走った。助手席には祥子、後部座席にはリコと佐山が座っていた。カーオーディオからは低めのボリュームで70年代のロックが流れていた。窓を少し開けると、湿った夜の風が車内に入り込んでくる。木々の隙間からは、ところどころ湖の水面がちらりと覗いた。

運転席の祐介は、黒いタンクトップ一枚にジーンズという出で立ちだった。日焼けした肩と腕がヘッドライトのかすかな明かりに浮かび上がり、筋肉の陰影がゆっくりと車の振動に合わせて動いた。胸元にはシルバーのチェーンが光り、そこに掛けられたサングラスが小さく揺れていた。グリップを握る手は大きく、しっかりとした骨の感触が見て取れた。何かを考えているような静かな横顔で、祐介はひとことも発さず、前方を見据えていた。

「……広いね、この車。乗り心地も、けっこういい」

祥子がふと前を見ながらつぶやいた。気負いのない、どこか独り言に近い口調だった。

祐介はハンドルを握る手にわずかに力を入れた。

「俺も気に入ってるんだ、この本革シート」

声は平静を装っていたが、視線は何度か横に揺れ、助手席の彼女の様子を盗み見ていた。

祥子は姿勢を少し変え、窓から入る風に肩を預けた。素肌に映えるボルドー色のチューブトップが、白いシャツの隙間からふと顔をのぞかせている。裾の長いシャツはゆるく羽織られたまま、胸元は自然と開き、脚はゆるく組まれていた。身体に沿うように細身のデニムが脚のラインをなぞり、膝のあたりに小さく裂けたほつれが無造作な柔らかさを添えていた。明るいインディゴの色味は洗いざらしのように軽やかで、裾は足首までぴたりと伸び、動きに合わせてかすかに皺を寄せていた。足首には細いゴールドのアンクレットが光り、足元にはストラップの細い、ヒールのついた黒いサンダルがあった。足の甲のラインがくっきりと出るそのデザインは、歩くより“見せる”ためのものに思えた。

だが、彼女はそうした自分の装いに自覚的というふうでもなく、あくまで気取らずに座っていた。あくびを我慢するように、口元を指で軽く押さえた。
「祥子ちゃんさ、今……彼氏とか、いるの?」

沈黙を破ったのは祐介だった。問いかけはややぎこちなく、だが本人なりに自然を装ったつもりなのだろう。声のトーンはいつもより少し柔らかくなっていた。

「いないよ」

祥子は肩にかかる髪をひと束、指でつまんで遊ばせながら答えた。顔は変わらず前を向いたままだったが、声にはどこか曖昧な余韻が残っていた。

「私ね、彼氏いないとダメなタイプなんだ。ほら……なんか、気持ちが安定しないっていうか。誰かがそばにいてくれないと、落ち着かないの」

リコが窓の外を見ていた顔をゆっくりと戻した。その横顔には、特に驚いた様子はない。ただ、淡く微笑んだようにも見えた。

「へえ。じゃあ、どんなのが好みなの?」

祐介の声が、ほんの少し浮いたように聞こえた。自分でも質問の深さが予想外だったのかもしれない。彼にとっては、こういう会話が自然と出るのは珍しい。

「んー……」

祥子は考えるふうに首を少し傾け、それから後部座席の方を振り返った。リコの隣に座る佐山と、ふいに目が合った。ほんの一瞬、何も言わずに視線が重なった。

「けっこう地味目の人が好きかも。言葉数少なくて、ちょっと影がある感じ? そういう人、気になる」

その言葉の意味を、佐山はすぐには掴めなかった。ただ、なにか胸の奥がわずかにざわついた。視線は自然と逸らしたのに、頬の内側が熱を帯びる感覚が残った。

リコが佐山を一瞬だけ見やった。その目には、気づいたような、何かを探るような気配が宿っていた。

「なんか祐介、今日はよく喋るね」

リコが軽く口を開いた。声は冗談めかしていたが、その裏にほんのわずかな探りが混じっていた。

「……いつもこんなもんだろ」

祐介はそう答えながら、ほんの少しだけ肩をすくめた。だが、アクセルを踏む足には、無意識の力が少しだけ入っていた。車は静かに、湖畔の道を進んでいた。夜風の匂いが、会話の余白にすっと入り込んできた。


「夏になったらさ、海行かない?」

祐介がハンドルの上で指を軽く叩きながら言った。誰に向けたというわけでもなく、ただ夜の空気に向かって投げたような言葉だった。

「いいね。今年は……白い水着、買おうと思ってるんだ」

祥子が何気なく言った。湖畔の闇に溶けるような声だったが、その響きにはどこか少女のような明るさがあった。

「可愛いよね、白い水着。ビキニがいいか、ワンピースか……どっちにしようかなぁ。ねぇ、祐介はどっちが好き?」

その問いに、祐介の目が一瞬泳いだ。が、すぐに笑いながら答えた。

「断然、ビキニだね。……紐とか」

「紐も可愛いよね」

祥子も笑いながら応じる。車内の空気がふっと緩んだ。

「Tバックとかも……ありかな?」

祐介の言葉に、リコがむせかえるように笑い、祥子も肩を揺らした。

「Tバックの水着は無理だよ〜。さすがに」

祥子が笑いながらそう言ったとき、佐山はふと、考えてしまった。

(水着は無理……ってことは……)

頭の中にふとした像が浮かんで、思わず口にしそうになったが、ギリギリで飲み込んだ。

代わりに、それを口にしてしまったのは祐介だった。

「水着は……ってことは?」

運転席から何気なく漏れたその一言に、リコが「バカじゃないの」と笑いながら小突き、車内にまた小さな笑い声が広がった。祥子も楽しそうに笑っていた。

「私も水着、買おうかなー。やっぱビキニが可愛いかな」

リコがさらっと言った。あっけらかんとした声で、完全に軽口の流れだった。

祐介は運転に集中しているふうを装い、何も言わなかった。祐介の悪い癖だ。興味がないことには返事すらしない。車内にひと呼吸ぶんの沈黙が落ちた。

その間を埋めるように、佐山がやや控えめな声で言った。

「……リコは、何でも似合うよ」

響きには迷いがあった。どこかで“言っておくべきかな”という義務感がにじんでいた。

「ふーん、じゃあ……黒にしようかな。似合うと思う?」

リコがそう返すと、佐山は一拍置いてから、また無難に答えた。

「うん、似合うと思うよ。リコなら」

その“リコなら”という言葉も、どこか既製品のように整っていた。

リコは、ほんの少しだけ唇の端を引き上げ、それからふうっとため息をついた。

「……なんかさ、佐山とこんな話しても、ほんとつまんないんだよね。いい男いないかな〜、まじで」

そう言って肩を落とすような仕草をして、リコはわざとらしく嘆いてみせた。空気は軽くなり、車内にまた笑いが広がった。湖畔を抜ける風が、窓の隙間からさらりと入り、髪を少し揺らした。