沈む音:1話 朝日の中に立つもの

朝、空はやや白みがかっていて、薄い陽がじわじわと森をあたため始めていた。風はなく、葉の裏に残る露が光を受けてわずかにきらめいていた。街の中心から車で少し走った場所にある湖は、立入禁止の看板が錆びて斜めになったまま放置されていた。けれど、そんな注意書きは昔からあってないようなもので、大物が釣れると知っている地元の人間は、今でもときおり様子をうかがって足を運ぶのだった。

佐山、わたる、祐介の三人は、その朝も釣り道具を手に、少しばかり後ろめたい冒険に出た。湖の縁には古びたフェンスがあり、彼らはそこをよじ登って尾根づたいの山道へと足を踏み入れる。先頭は佐山、わたるが続き、祐介が最後尾を歩いた。森の中は深く、木々の間を縫うように小道が続いていた。少しぬかるんだ土を踏む音と、鳥の鳴き声だけが耳に届く。

しばらくして、森がふいに途切れる地点に出た。目の前に湖面が広がり、静かな水が朝の陽を映して銀色に光っていた。三人とも言葉を交わさずに立ち止まり、まずは水道局の監視員がいないかを確認する。ここではそれが決まりのようなものだった。

「ん……」


佐山がわずかに眉を寄せた。視線の先、水際の開けた場所に、何かがはっきりと立っていた。距離にして三十メートルほど。木立の影ではなく、確かに陽の差す岸辺の、その明るい空間に、ぽつんと人影があった。

白いTシャツに、くすんだカーキ色のズボン。だが、その人物には——顔が、なかった。正確に言えば、そこには肌のような質感の平らな面が広がっていた。肌色ではあるのに、目も鼻も口も、どこにも存在しなかった。仮面のような無機質さとは違い、生々しい肉の気配だけがあって、それがかえって、ぞっとするような違和感を生んでいた。

さらにおかしなことに、その足元——膝から下が、うすぼんやりと透けていて、地面に届いていなかった。まるで、空気の中に浮かぶ何かが、そこに紛れ込んでしまったかのようだった。

佐山は身を低くし、じっとそれを見つめた。わたるがすぐ後ろで小声を漏らした。

「……あいつ、顔がねぇ……バケモンだ……」

声はかすれていた。普段、冗談ばかりの彼が震えているのが分かった。

「何がだよ……お前ら、俺をからかってるのか?」

祐介が苛立ち気味に呟く。彼には、何も見えていないようだった。眉間にしわを寄せ、空を睨むようにしていた。

佐山は黙って立ち上がり、ゆっくりと数歩、前に進んだ。

「やめとけって……やばいって、マジで」

わたるの声は、止めるというより、祈るようだった。けれど佐山は好奇心を止めることができず、足を踏み出した。その瞬間だった。

空気が変わった。

ザァァッ——。

突風のような風が森を駆け抜け、頭上で枝葉が揺れた。木のこすれる音が一斉に鳴り、三人とも思わず頭上を見上げた。風が、森を目覚めさせたように木々をざわつかせる。

佐山が慌てて視線を戻すと、そこには、もう何もいなかった。

ただ、朝の光が湖面に広がっているだけだった。

佐山は、ゆっくりと、湖畔の方へと歩を進めた。足元の草が靴の縁を濡らし、冷たい感触がじわじわと靴下に染み込んでくるのを感じた。踏みしめるたびに、枯葉がかすかに音を立てて割れた。わたると祐介の気配は、背後に遠ざかるように感じられた。まだそこにいるのか、あるいはもう動き出したのかは分からなかった。

さっきまで「それ」が立っていた場所に立ち、佐山はしばらく周囲を見回した。そこだけ草が少し寝ていて、足の形のようなものがあるようにも見えたが、確信は持てなかった。風が吹いたせいかもしれないし、ただの思い込みかもしれなかった。

しゃがみ込んで、指先でそっとその草を撫でてみた。ただ湿った匂いが手に残った。顔のない何か。あれは、幻だったのだろうか。いや、そんな言葉では片付けたくなかった。自分が見たものを、はっきりとしたものとして考えていたかった。何か理由があるのだと。何か、そこにあるのだと。

ふと、背後の森が気になった。さっき風が駆け抜けたとき、あのあたりで何かが動いたような気がしたのだ。ただの風ではなかったような——そんな感覚が、胸の奥に引っかかっていた。

佐山は立ち上がり、湖に背を向けて森の方を見つめた。木々の奥にはまだ薄暗さが残っており、朝の光はその深い部分までは届いていなかった。なにかが、そこにあるのかもしれない。

一歩、森の方へと歩みかけたその時だった。

「なあ、サヤ……もうやめようぜ。やっぱ、気味悪ぃよ……」

わたるの声が、思いのほか近くから聞こえてきた。さっきまで震えていた声とは違って、今は少しだけ強い意志が感じられた。彼なりに、自分の中の不安を押し込めようとしているのが伝わってきた。

佐山は振り返った。わたるは目を逸らさずにこちらを見ていた。祐介はやや離れた位置で立ったまま、じっと二人を見ていたが、あまり状況を理解していないようだった。

「なあ、違うとこ行こうぜ。今日、ここじゃねぇ方がいい気がする。な、釣り、できりゃいいんだろ?」

わたるの言葉には、頼むような響きが混じっていた。理由なんてどうでもよくて、ただそこにいたくない——そんな気配が声の奥にあった。

佐山はしばらく黙っていた。森の方にもう一度目をやり、微かに唇を引き結んだ。何かが彼の中で答えを出そうとしていたが、答えは出なかった。まだ、何も分からなかった。

「……ああ。そうだな。行こう」

そう言って歩き出すと、わたるがほっとしたように息を吐く音が聞こえた。三人は来た道を戻りながら、もう誰も振り返ることはなかった。森は、静かに彼らの背中を見送っていた。



数日後、その湖の森の中で、若い男の他殺体が発見されたというニュースが、街に流れた。静かな湖畔は、その日から少しだけ、深く息を潜めたように見えた。