「おい、てめぇ、狭山だな?」
その声が飛んできたとき、狭山は神社の横手で、バイクのミラーを柔らかい布で磨いていた。
風が乾いていた。空には薄い雲がかかり、光は拡散して、まぶしさよりも白っぽい眩惑が目に残った。
神社の境内は人の気配もなく、どこかしんとした空気があった。木立の間から風がすり抜け、葉が擦れ合う音が絶えず耳に届いていた。
「……誰?」
狭山はミラー越しに反射した人影をゆっくりと振り返った。
金色のネックレス。上下おそろいのジャージ。足元は白く汚れたエアフォース。肩で風を切るように歩きながら、ニヤついた顔でこっちに向かってくる。
その姿には見覚えがあった。数回、リコバンドのライブ会場で見かけたことがある。
隣町の中学で、そこそこ名前の知れたヤンキーだったはずだ。名前はショウゾウか、ヘイゾウか。
だが、本名よりも「賽銭番長」という奇妙なあだ名の方が印象に残っていた。
かつて狭山の中学のヤンキーグループ――わたるや祐介たちといざこざがあり、その関係で今でも、わたる経由でリコバンドのチケットを買わされているという噂だった。
「てめぇ、俺のこと知らねぇのか? 元五中のショウゾウだよ。名前ぐらい聞いたことあんだろ? すかしやがってよ、コラ……てめぇ、俺の女に手ぇ出しただろ。リコだよ、リ・コ。アイツを部屋に連れ込んで、やりまくってるって話、聞いてんだよ!」
一歩、ショウゾウが詰め寄ってきた。
その顔は怒りで赤く染まり、肩がわずかに上下していた。息が荒い。
だが狭山は、その気配に真正面からぶつかることも、かわすこともせず、ただ一つ息を吐いてから口を開いた。
「……あぁ、そういうことか」
「 ああ!? 俺はな、全部、わかってんだよ!」
「説明するよ」
狭山の声は、低く、しかしよく通った。騒がず、乱さず、言葉を丁寧に並べるようにして話した。
「はァ!?」
狭山は、少し距離を取るように身を引きながら、それでもまっすぐ相手を見て続けた。
「たしかに泊まったことはある。でも、それは幼稚園のころから何度もあったことで、リコは、俺の部屋でアイス食って、漫画読んで、眠くなったらそのまま寝るような奴で、
そういう関係なんだよ。ただの幼馴染。言っとくけど、手を出したことなんて一度もない」
ショウゾウは眉間にしわを寄せたまま、黙り込んだ。
だが、拳を握りしめる手の震えが止まらない。腕の内側に浮いた青筋が、その怒りの深さを物語っていた。
「……じゃあ、なんだよ。あいつ、てめぇのこと、好きなんじゃねぇのかよ?」
「ないないない。マジでない。俺にとってもリコは “女”じゃない。兄弟みたいなもんだよ。ただの幼馴染。
だから……お前のこと、邪魔するつもりもないし、心からふたりの幸せを祈ってる」
その言葉は、一歩引いたようにも、悟ったようにも聞こえた。
けれど、それこそがショウゾウの怒りにさらに火を注ぐ結果となった。
「……はァ!? なに、まともぶってんだよ! そういうとこがムカつくんだよ、お前!何が“幸せ祈ってるよ”だよ、ふざけんじゃねぇぞ!! リコと未だに一緒に風呂入っていちゃついてるって聞いたぞ」
「ないない。いいか、リコで勃つことは絶対にない。マジでない」
「嘘だッ!」
ショウゾウは吠えるように叫んだ。
その声は、自分でも制御できない感情の噴き上がりのようだった。
もはや理屈や証拠は問題ではなかった。ただ胸の奥に滞っていた“何か”――苛立ち、嫉妬、恥、劣等感――それをどうにかして吐き出したい、その衝動が全身を突き動かしていた。
狭山は、一拍置いてから口を開いた。表情は変わらない。だが、声にはかすかに硬さが混じっていた。
「……話が通じねぇな。もう一回だけ、丁寧に説明するぞ」
その声音は低かったが、芯があり、言葉の一つ一つがはっきりと届いた。
「リコとは、ただの幼馴染だ。
幼稚園のころからずっと一緒で、俺にとっては……家族みたいなもんなんだ。
泊まったとか風呂一緒に入ってるとか、そういう話だけ切り取られても困る。
本当に、手は出してない。
で、俺はお前らのことを邪魔する気もない。リコが誰を選ぶかは、リコが決めることだろ?」
ショウゾウは、しばらく黙っていた。
その沈黙には、納得の気配はまるでなかった。
代わりに、怒りを抑えきれないような浅くて速い呼吸だけが空気を揺らしていた。
「……やっぱムカつくわ、そういう言い方。なんか、お前さ、全部わかってるような口ぶりじゃん。
上から見てんのか? 俺らのこと」
「そう聞こえるなら、悪かった。でも、事実だから。俺は何もしてない。それだけ」
「うるせぇ!」
ショウゾウが怒鳴った。
その目の奥には、もう言葉を受け止める余地がなかった。膨らんだ怒りが、理解の隙間をふさぎ込んでいた。
狭山は、胸の奥で静かにつぶやいた。
《彼女は守れない。進学も無理っぽい。ギターは中途半端。林田は死んだ。バイクに乗るのもビビってる。俺は何も成し遂げられない。クズで、カスだ。》
その思いが胸の中に沈みきるのを待つように、一瞬だけ目を細めてから、口を開いた。
「……話、通じねぇな。じゃあさ――お前らヤンキー流に、殴り合いで決めるか。かかってこいよ」
声はあくまで落ち着いていた。
不気味なほど、整っていた。
それは冷静さというより、すべてを諦めた先の静けさに近かった。
「最近さ、うまくいかなくて……むしゃくしゃしてんだ。いい機会かもしれない」
そう言いながら、狭山はゆっくりと拳を握った。
無駄のない動作だった。指の関節がひとつずつ静かに締まり、皮膚の下に力が集まっていく。
その様子に、ショウゾウの肩がわずかに引いた。
表情の奥に戸惑いが浮かぶ。声がわずかに揺れた。
「……お、おい……ちがう、今日はそういうつもりじゃ……喧嘩しに来たわけじゃねぇんだよ」
「じゃあ、なんだよ」
狭山は、まっすぐにショウゾウを見た。
目をそらさず、けれど威圧するわけでもなく、ただ一点を静かに貫くような視線だった。
「話は通じない、喧嘩はしない。だったらお前、何しに来たんだよ」
言葉が鋭く、冷たく、空気を裂いた。
ショウゾウは、反射的に目をそらし、視線を彷徨わせた。
「……と、とにかく……俺、なんか、腹立ってて……」
口にしてみても、その言葉がどれほど空虚か、自分でもわかっているような顔だった。
狭山は少しだけ息を整えるように間を置き、それから静かに言った。
「じゃあ、俺からいくわ」
その言葉とともに、狭山は拳をわずかに持ち上げた。
すぐにショウゾウの肩がびくりとすくみ、反射的に両手を前に出すような動きを見せた。
「ま、待て待て! お、お茶でも飲んでさ、話そうぜ! な?」
間の抜けたその一言に、狭山は小さく呆れたような表情を浮かべた。けれど笑いはしなかった。
そのまま淡々と言う。
「……自販機、そっち」
「う、うん」
ショウゾウは、少し遅れて歩き出した。足取りは不自然で、つま先が地面を撫でるようだった。
自販機の前まで来ると、彼はポケットの中をまさぐりながら、気まずそうに呟いた。
「……あ、やべ。財布、忘れたかも」
狭山は何も言わずに、自分のポケットから小銭を取り出して自販機に入れた。
それから、どうぞと目で合図した。
「……サンキュ」
ショウゾウが選んだのは、黄色と黒の縞模様が目立つ缶だった。
“マックスコーヒー”。どこか懐かしく、あまりにも甘いことで知られている。
「それ甘くないか?」
「甘いのが好きなんだよ」
ショウゾウは缶を開け、ためらうことなくひと口飲んだ。
そして、口の端にわずかな笑みが浮かんだ。
「うわ、甘っ……これ、やっぱバカみてぇに甘いな」
「だよな」
「けど、悪くねぇな。なんかこう……バカになれるっていうか。頭ん中で怒ってたのが、ちょっとだけ溶ける感じ」
狭山はブラックコーヒーの缶を開けた。金属の軽い音とともに、微かに焦げたような香ばしい匂いが立ち上る。
苦味の強い香りが鼻に抜け、口の奥にゆっくりと広がった。
ふたりは並んで缶を持ち、何も言わずに立ち尽くした。
神社の裏手では、鳥がひと声だけ鳴き、それきり沈黙が戻ってきた。
「……お前、思ったよりいいやつだな」
ショウゾウが、ぽつりと言った。
その声には、ほんの少しだけ照れくささが混じっていた。
「俺だったら、とっくにキレてるわ。変な噂流されて、女寝取ったって言われて、殴りに来られて……」
「とっくにキレてたよ。ただ、それをぶつける相手が見つかんなかっただけで、お前がちょうどよかったのかもな」
「……は? なにそれ。いや、でも、なんか……わかる気もするな」
ショウゾウは言いながら、手の中の缶をぐびりと傾けた。
炭酸の抜けたような吐息が漏れ、肩の力がわずかに抜けた。
「俺さ……リコのこと、本気で好きなんだよ」
狭山は何も言わなかった。
ただ、缶を持つ手の指先にほんの少しだけ力を込めた。
アルミの感触が、冷たく、指の内側に沈んでいく。
もう一口、缶コーヒーを飲みながら、狭山はふと隣に目をやった。
「そういやさ。お前、“賽銭番長”って呼ばれてんの、あれ……なんで?」
その問いに、ショウゾウは口の中のコーヒーを飲み干すと、一瞬だけ動きを止めた。
顔の筋肉が微かにこわばる。
「……それ、誰に聞いた?」
「中学のやつら。わりと有名だったけど」
「……あー……まあ、うん。ガキのころな。
神社の賽銭箱から、ちょっと小銭くすねたことがあってよ。
それ見られてて、そっからずっとそう呼ばれてる。
俺も、笑い話になるかと思って流してたけど……まあ、定着しちまったな」
狭山は吹き出しそうになったが、なんとかこらえた。
笑うには惜しいほど、子どものころの必死さが滲んでいた。
「コンビニでガリガリ君買うには金がいるだろ。家の小銭入れに手出すのはバレるし、あそこしか思いつかなかったんだよ、当時は」
「……リコは、知ってんのか?お前が“賽銭番長”って呼ばれてるの」
ショウゾウの顔が急に引き締まった。
真剣な目で狭山を見て、首を横に振った。
「知らないと思う。だから……言わないでくれよ。マジで」
狭山は少しだけ間を置き、目線を下げて、静かにうなずいた。
「……わかった」
「お前、ほんといいやつだな……」
ショウゾウは空になった缶を指でトントンと軽く叩いた。
その音が、午後の神社に乾いて響いた。
「……でもな、正直まだ……リコ寝取ってないって話、全部は信じきれてねぇ」
狭山は、思わず額を押さえた。
言葉よりも先に、呆れた呼吸が漏れた。
「……お前さあ……もう、それ何回目だよ……」
そのときだった。
背後から、やや高めの、しかしはっきりと聞き覚えのある声が飛んできた。
「なにやってんの、あんたら?」
その声に、ふたりは一斉に振り向いた。
リコが神社の石段を上がってくるところだった。
制服の上着の袖を肘までまくり、髪は少し乱れている。目だけが鋭く光っていた。
「……なんでもねぇよ」
ショウゾウが、少し声を落として言った。
「なんでもねぇわけあるか。顔赤いし、変な汗かいてるし。アンタ、またしょうもないことで狭山に絡んだんでしょ」
「いや、違……ちょっと話し合ってただけだし」
「へぇ〜……話し合いねぇ」
リコはまっすぐに歩み寄ってきて、ショウゾウの目の前でぴたりと立ち止まった。
そして、いきなり、ぱしんという音を立ててその頬を叩いた。
「……いってっ! おい、なにすんだよ!」
「黙れバカ。嫉妬で暴走してんじゃねぇよ。恥ずかしいし迷惑だろ」
「だってよぉ……お前、昔から狭山と仲良いって噂だし、一緒に風呂入ってやりまくってるって噂聞いて、なんかこう……不安になるっつーかよ……」
「その噂ひどすぎ」
「俺リコの事、好きだから……」
その言葉に、リコは少しだけ目を細めた。
けれどすぐに、あきれたような、でもどこか照れたような顔で言った。
「……あんた、ほんと面倒くさい。でもまあ……私に嫉妬してくれたって思えば、ちょっとだけ嬉しいかもね」
ショウゾウはぽかんと口を開けた。
「……え、マジで?」
「調子乗んな」
それだけ言って、リコはぷいと顔をそらした。
そのやり取りを、狭山は少し離れた場所から見ていた。
手に持った空の缶は、まだ少しだけあたたかかった。
ショウゾウはまだ頬を押さえていたが、怒りや羞恥はどこかへ去り、代わりに呆けたような照れが横顔に残っていた。
リコは一歩だけ後ろに下がり、長く息を吐いた。
そして、狭山のほうをちらりと見た。
「……ごめんね、変なとこ巻き込んで」
狭山は首を振った。
「いや、別に。巻き込まれたっていうか……巻き込まれに行った気もするし」
「……あんたさ、ほんと変わらないよね。むかしから、そうやって黙って人の喧嘩に付き合ってんの」
リコは少し笑った。
その笑みには、わずかに残る怒気と、けれど安心した気配も混じっていた。
風がまた、神社の裏手から吹き抜けた。
木の葉がひとつ、ふわりと落ちた。
「……あんた、最近どう? 恵ちゃんとは」
狭山はその言葉に、わずかに目線をそらした。
「……まあ、ぼちぼち。いろいろあるよ」
「そう」
リコはそれ以上、何も聞かなかった。
間を埋めるような言葉もなかった。
「じゃ、行こっか」
リコが何気なく言い、ショウゾウの腕を軽く引いた。
その手は強くもなく、遠慮がちでもなく、ごく自然な動きだった。
ショウゾウは少し驚いたように眉を上げたが、すぐに照れ隠しのように鼻を鳴らして言った。
「……今度は俺が奢るわ」
缶を片手に歩き出す。
リコはそのすぐ横を、気負いなく並んで歩いた。
ふたりの背中が神社の参道に向かって小さくなっていく。
リコは一度だけ、振り返った。
狭山を見たわけではなく、ただ何かを確かめるように、短く、静かに振り返っただけだった。
狭山はその場に残っていた。
足元には空になった缶がひとつ。指先にぬくもりはもうなかった。
微かに甘いコーヒーの匂いが、風に流れて消えていった。
神社の境内には、人影も音もなかった。
ただ風だけが、一定の間隔で吹き抜けていく。
葉の裏をめくり、鳥居の朱を撫で、石畳に乾いた音を落としていく。
狭山は小さく息を吐いた。
その音もまた、すぐに風に紛れて消えた。
ベンチに腰を下ろし、空を見上げる。
薄く白んだ雲が流れ、その向こうに、太陽の輪郭がぼんやりと透けていた。
孤独というには、まだ早い。
でも誰かといるという感覚からは、すでに少し遠ざかっていた。
風がまたひとつ、彼の肩を抜けていった。