夢
放課後の音楽室には、まだ西日の光が残っていた。
さっきまで響いていた吹奏楽の音は止み、金管の余韻が天井に薄く残っていた。
譜面台の影が床に伸びている。
横川はケースをそっと床に置き、バッグから小さなハンカチを出して首元に当てた。
その仕草は、癖というより、身についた作法のようだった。
「私ね、大学出たら、国際線のCAになりたいの」
狭山は、窓辺の椅子に腰かけていた。
風が入ってくる。軽い音を立てて、カーテンが彼の肩に触れた。
「だから最近は、英語もちゃんとやってる。英検も申し込んだし、NHKのニュースも英語で聞いてる」
横川は言いながら、膝の上でハンカチを折りたたんだ。
「それでね、いつかカナダ人と結婚して、あっちで暮らすのが目標」
狭山は、彼女の目を見ようとして、できなかった。
一拍あって、声が漏れた。
「カナダ人……?」
口に出してから、自分でも幼いと思った。
「……俺、日本人だけど」
横川は笑った。その笑いには棘も突き放しもなかったけれど、どこか少し遠かった。
「うん、知ってるよ。いまはって話。夢の話だから」
狭山はうなずこうとして、動かなかった。
彼女が何を伝えたいのか、理解しようと努めた。夢の話。それはわかっている。
けれどその夢は、自分が含まれていない未来のことだった。
静かに、だが確実に、そのことだけが胸の奥に広がっていった。
そして、それがこの会話の核心なのだと、狭山は気づき始めていた。
床の上では、彼女の金色の楽器が、黙ったまま光を受けていた。
音楽室の扉が遠くで閉まる音がして、もう一度、静けさが戻ってきた。
ポケットのピック
エンジンの振動が、体の芯までじんわりと伝わってくる。
住宅街の細い道を抜け、狭山はいつもの倉庫裏の練習スタジオへとバイクを走らせていた。
学校とは違う服装。白Tに薄いネルシャツを羽織り、ジーンズのポケットにはピックが数枚入っている。
ヘルメット越しに、町の音が遠ざかっていく。
自転車のブレーキ音、コンビニから出てきた客の笑い声、すれ違う車のタイヤがアスファルトを撫でる音。
どれも遠くて、現実感がなかった。
横川の声が、まだ耳の奥に残っていた。
「……いつかカナダ人と結婚して、あっちで暮らすのが目標」
その言葉の「目標」という言い方が、今になってじわじわと効いてくる。
なぜ、そこで「いつか」とつけたのか。
なぜ、自分に向かって話しているのに、自分の存在を想定しない未来の話をしたのか。
バイクの音にかき消されそうになりながら、狭山は無意識に唇を噛んでいた。
交差点を過ぎた先の角を曲がると、スタジオの看板が見えてきた。
その前に、見慣れたママチャリが一台、斜めに停めてある。
キムのだ。
ギターのネックが背中に当たる感触が、意識を引き戻す。
狭山は少し背負い直し、クラッチを切った。
この時間だけは、何も考えずに済む。音だけに集中していればいい。
そう信じて、ここまでやってきた。
けれど今日に限っては、コードを押さえる指先にも、あの言葉の残響が絡みついて離れない気がしていた。
キム
スタジオのドアを開けると、かすかに埃っぽい空気と、弦の張り替えたばかりの匂いが混ざっていた。
中ではキムがエフェクターの配線をいじっていて、ケーブルの先を手の甲で拭っていた。
「お、サヤ来たな。早えじゃん」
キムが振り返りもせずに言った。声だけで、誰かを判別できる関係というのは、案外気安いものだ。
狭山はギターケースを壁際に立てかけた。
リコの姿は見えなかった。まだ来ていないらしい。
「リコ、今日は?」
「たぶん、バスが遅れてる。メシ食ってから来るって言ってた」
キムはチューナーを接続しながら、無造作に答えた。
そして小さく口笛を吹いた。調子はCだった。
狭山はアンプの電源を入れ、コードを差し込んだ。
手元はいつもの手順をなぞっているのに、頭のどこかがぼんやりしていた。
言葉にするには曖昧すぎる感情が、胸のあたりに引っかかっていた。
キムが何かを感じ取ったのか、ちらとこちらを見た。
けれど、特に何も言わなかった。
それがかえって助かった。口に出せることじゃなかったし、出したところで整理もついていなかった。
スタジオの蛍光灯が少しチカチカしていた。
狭山はギターの弦を軽くはじいた。Dのコード。
思ったより乾いた音が返ってきた。
あの事件
キムは床にしゃがんで、エフェクターの配線をまとめていた。
コードの絡まりをほどきながら、口を開く。
「……テル、今日来るかもしれない」
狭山はギターケースのファスナーを閉めたあと、軽くうなずいた。
「そう」
「俺とリコで連絡したんだ。ちょっと、ちゃんと話したいってさ。スマホの件も含めて」
狭山は、ギターのストラップを肩にかけた。
アンプに繋いで、手元のノブをゆっくりと回す。
「別に、怒ってるわけじゃない」
低く静かな声だった。自分に言い聞かせるようでもあった。
「ただ、落ちついて話せるなら、それでいい」
キムは配線を巻き終えて立ち上がった。
「ありがたい。正直さ、空気悪くなるかなと思ってた。今週、スタジオ入れる日もう少ないし」
狭山はコードを軽く押さえ、弦をひとつ鳴らした。
その音は短く、低く響いてすぐに消えた。
「心配すんなよ。昔から、ああいうの慣れてるから」
少しだけ、口元が緩んだ。
キムは肩をすくめて笑った。
「……まじで謎なんだよな。お前らの距離感」
「まあ……そういうもんだよ」
テル
スタジオのドアが開いた。
ノックもなく、いつもの調子で。
「よぉ」
テルだった。制服のまま、手ぶら。ポケットに手を突っ込んで、特に気負いもなく入ってくる。
キムが手を挙げた。
「来たな。珍しく時間ぴったり」
「俺だって、やるときはやる」
テルは軽く笑って、足でドアを閉めた。
わずかに湿った外気が入り、すぐにまたスタジオのこもった空気に戻った。
狭山と目が合う。
少しの間のあと、テルが言った。
「……この前は、悪かった。ダサいことした」
声は素直だった。取り繕うような調子はなかった。
狭山はギターのストラップを肩にかけたまま、小さくうなずいた。
「うん」
「携帯、親に買ってもらったやつでさ。めっちゃ怒られた。『もう頼るな』って」
壁にもたれながら、テルが苦笑する。
「祐介もさ、あそこまでやらなくてもよくね? マジで粉々だったし」
「……あいつ、昔から極端だから」
狭山は静かに言った。言い訳でも、責めるでもなく。
テルは笑いかけたが、途中で止まった。
その時、狭山がふいに顔を上げた。
目はまっすぐだった。
声はそれまでと違って、明確に力がこもっていた。
「……あの画像、もう残ってないのか?」
問いは、明らかにそれまでの会話とは違う重みを持っていた。
テルは一瞬、視線をそらした。
「ない。全部、消えた。端末ごと」
蛍光灯の白い光が、スタジオの床に淡く落ちていた。
その静けさのなかで、テルの声だけがかすかに響いた。
「思い出も、まとめて消えた感じ。まあ……馬鹿なことした報いだな」
狭山はギターの弦を軽くはじいた。
短い音が出て、すぐに消えた。
「……だな」
笑っていた。ほんのわずかに。
祥子
スタジオのドアが小さくノックされた。
それに反応して誰かが立つでもなく、ただ皆が一瞬、音の方に顔を向けた。
「おじゃまします」
リコの声がして、ドアが開いた。
その後ろに、ひとりの女の子が立っていた。
制服はリコの学校のものだったが、着こなしには少しだけ崩しが入っていた。
ネクタイをゆるく結び、カーディガンの袖を指の先まで伸ばしていた。
肩までの髪が柔らかく波打っていて、目元にはなにか、理由のある影があった。
ふしぎと目を引く子だった。
声を出す前から、その場の空気に触れていた。
「紹介するね」
リコが振り返る。
「この子、祥子。クラスの友達。今日ちょっとだけ見学」
祥子は、スタジオの中をゆっくりと見回した。
そして少しだけ顎を引いて、柔らかく頭を下げた。
「こんにちは。すこしだけ、おじゃまします」
その仕草には無理がなかった。かといって、馴れ馴れしさもなかった。
誰かに見られることに慣れているのか、あるいはそういう目を自然と集めてしまう人なのか。
三人の視線が、ほとんど同時に彼女に集まっていた。
「こっちは狭山、キム、テル。みんな地元のバンド仲間」
リコはさらりと紹介する。
祥子は彼らを一人ひとり見て、ゆっくりと頷いた。
狭山の方へ視線が一瞬長くとどまったのを、本人だけが気づいた。
「よろしくお願いします」
それだけ言って、リコのそばに立った。どこか立ち位置を計っているようでもあった。
「ちなみにこの子、前の彼氏が横浜のバンド関係者でさ。今日はその……次を物色しに来たらしいよ?」
リコが冗談まじりに言う。
「ちょっと、それ言う?」
祥子は笑いながらリコの肩を軽く叩いた。
声はあたたかく、けれどそのまなざしはどこか涼しかった。
キムが手を挙げて「よろしく」とだけ言い、テルは「おう」と短く返した。
狭山は一歩後ろに重心を移し、ギターのストラップを持ち直しながら「どうも」と言った。
その言葉のあとに、わずかな静けさが落ちた。
アンプのスイッチが微かに唸る音が、背景のように響いていた。
Smells Like Teen Spirit
「じゃ、Smellsでいこうか」
キムがそう言ってベースのストラップを肩にかける。
テルがスローンに座り、スティックを軽く合わせて空中でリズムを刻む。
狭山はギターのトーンを整え、ピックを握り直す。
リコがマイクの前で軽く首を回し、足元のモニターに視線を落とした。
部屋の隅では、祥子が丸椅子に腰を下ろし、両膝の上に手を置いてじっと見ていた。
狭山のギターが、あの印象的なリフを切り出す。
D5–F5–B♭5–A5。
ジャカジャカと、粗く鋭い音がスタジオに響いた。
次に入るべきはドラムだった。
けれど、テルの最初の一打が、ほんのわずかに遅れた。
スネアが引っかかり、クラッシュが空回りするように鳴った。
「ストップ」
キムの声がかかった。
音はすぐに止まった。
テルが眉を寄せて、スティックを太ももに当てる。
「もうちょい前で叩いて。いま、ちょっとだけ後ろ寄り」
「……自分では合ってるつもりなんだけどな」
キムはベースを壁に立てかけ、テルのそばまで歩いていった。
スローンの横でしゃがみ込み、スティックを手に取る。
「ちょっとだけ叩くね。4小節だけ」
そして叩いた。
クラッシュ、バス、スネア、ハイハット。
なめらかな手の動きで、音に無駄がない。
重さと跳ねがちょうどよく噛み合い、ギターとぶつからず、ベースを引き立てるリズム。
キムはスティックを静かに返した。
「一打目、もっと深く。力はいらないけど、速く当てる。今のは、それだけ」
テルは何も言わず、スティックを持ち直した。
再びイントロ。
今度のドラムは前よりずっとしっくりきていた。
リコの歌が入る直前、狭山が音を止めた。
「……ごめん、ちょっと待って」
ギターの音を切って、ピックを握り直す。
「なんか、のりが変なんだよな」
そう言いながら、目だけでキムを見る。
キムは軽くうなずいた。
「音、ちょっと伸びてる」
「だよな……」
「右手、ミュート入ってる?」
「意識はしてる。けど……甘い?」
「うん、たぶん“止めてる”んじゃなくて、“残ってる”」
キムは指でエアギターの動きを作ってみせた。
「リフの終わりで、もう少しきっちり弾き切ってからミュート。ピッキングと同時にピックの腹で触って、音を断つ感じ」
狭山はギターを抱えたまま、右手を弦に沿わせる。
ピックの角度を微調整して、もう一度弾いた。
音が短くなった。
空気が少しだけ締まる。
スネアと噛み合う輪郭が、ようやく見えてきた。
キムはベースを拾い直して、何も言わず立ち位置に戻った。
「……もう一回、頭から」
リコが言った。
誰も反対しなかった。
その直前、狭山がピックを握り直したとき、視線を感じた。
何かに見られている、というのではなく、
何かが、こちらを見つめている。
祥子だった。
部屋の隅の丸椅子に静かに腰をかけたまま、姿勢もほとんど変えずに、彼らのやり取りを見つめていた。
足を軽く組み、手を膝にのせ、ほんの少しだけあごを引いた角度で。
髪が頬に沿って落ちていて、その間から見える目は、まるで音の動きそのものをなぞるようだった。
口元には、何かを面白がっているような、けれど笑っているとは言い切れない表情が浮かんでいた。
柔らかくて、涼しい。
その両方が共存していた。
魅力的な子だった。
理由を言葉にしようとすると、どれも届かない気がした。
空気の密度を少しだけ変える、そういう種類の人だった。
狭山はほんの一瞬だけ、その視線に気づき、何も言わずに目をそらした。
弦に指を置き、肩をほぐす。
いつも通りを、少しだけ丁寧にやり直す。
それだけだった。
狭山は弦の上に指を置いた。
ほんの一瞬、音が鳴る前の静けさがあった。
その向こうに、祥子のまなざしがまだあった。
気負いではなかった。
気づかれたことに対する、ささやかな応答のようなものだった。
キムがベースを構え直す。
テルがリズムを刻むように軽くスティックを合わせる。
リコがマイクの前に立ち、ブレスを一つ落とした。
そして、ギターが再びリフを切った。
今度の音は、少しだけ深く、輪郭がはっきりしていた。
その後を追うようにドラムが入り、ベースが支えに回る。
音が、音として形になり始めていた。
リコの声が入る。
英語の歌詞は、口に出すと不思議と柔らかく、遠く響く。
言葉の意味は誰も正確には考えていない。
ただ、声と音とリズムだけが、そこにあった。
スタジオの空気が、少しずつ熱を帯びていった。
何かが噛み合い始めていた。
まだ完成には遠い。でも、遠すぎもしない。
その“途中”の感触が、いまは悪くなかった。
ゲスでクズ
機材の片づけを終え、スタジオを出たのは七時を少し回った頃だった。
外はまだ薄明るく、けれど風の匂いには、日が暮れはじめている気配が混ざっていた。
それぞれが手ぶらに近い。
狭山はギターを背負い、リコは肩にショルダーバッグ。
テルはスティックケースだけを持ち、キムはベースのソフトケースを片手にぶら下げていた。
祥子は数歩あとを歩いていたが、スタジオの前の路地を出るところで、狭山の横に並んだ。
「……バイク、乗ってるんだ」
狭山は、後ろに停めてあるバイクを見やってからうなずいた。
「うん。通学は禁止だから、練習のときだけ」
「へえ。なんか、似合う」
祥子はそう言って、少し笑った。笑っていたが、声の底に何か探るような静かさがあった。
リコがふいに、そのやりとりに割って入る。
「ダメだよ、そいつ彼女いるから。狙うならキムか──最悪テルかな」
少し間を置いて、続けた。
「……やっぱ、テルはゲスでクズっぽいとこあるから、ありえないな」
声のトーンは軽かった。けれど、冗談としては、かなりきつい。
空気のどこかが、一瞬だけ張った。
テルはリコをちらと見て、すぐに目を逸らした。
軽口を返すような間もなかった。
足元を見たまま、小さく声を落とす。
「……悪かったって、思ってる。ほんとに。だから、許してくれとは言わないけど……」
言いかけて、口を閉じた。
言葉の残りは、そのまま飲み込まれた。
「わかってるなら、いいよ」
リコはそれ以上、何も言わなかった。
代わりに、祥子の肩を軽く叩いて歩き出す。
祥子はそれに応じて歩きながら、振り返りもせずに、ただ一度だけ笑った。
その笑いが何を意味するものだったのか、誰も判断できなかった。
通りの向こうに夕焼けが沈みかけていた。
風がバイクのサイドミラーを揺らし、静かな金属音が小さく響いた。
カナダ
帰り道は、それぞれが自然に分かれていった。
キムは駅のほうへ、テルはコンビニに寄ると言い、リコと祥子は同じ方向へ歩いていった。
誰も特別な別れの挨拶はしなかった。ただ、手を挙げたり、軽くうなずいたりして、別れていった。
狭山はひとり、バイクのキーを回してヘルメットをかぶる。
まだ空には薄い明るさが残っていて、街灯がじんわりと滲む時間だった。
エンジンの音が小さく震え、静かな住宅街に溶け込んでいく。
交差点をひとつ過ぎたあたりで、ふと、昼間の言葉が頭をよぎった。
——「カナダ人と結婚して、あっちで暮らすのが目標」
恵の声だった。
音楽室の窓の外で、吹奏楽部がチューニングしていた音も、いまでは遠い。
あのときは、笑って返した。
でも本当は、何を言いたかったのか、まだはっきりとわかっていない。
本気の夢だったのか、冗談だったのか。
別れをにおわせるつもりだったのか、それとも、ただの将来の話だったのか。
考えれば考えるほど、言葉の輪郭がぼやけていった。
けれど、ひとつだけ確かに残っているのは——その未来に、自分の名前はなかったこと。
赤信号でバイクを止める。
ヘルメット越しに、今日の音がふと浮かぶ。
弦の鳴り。スネアの弾み。キムの声。リコのカウント。
そして、祥子の目。
彼女は特別なことをしたわけじゃなかった。
ただ見ていただけ。言葉も少なかった。
でもその視線が、妙に印象に残っていた。
興味を持たれていたのか、試されていたのか。
あるいは、どちらでもないのか。
信号が青に変わる。
アクセルをひねって、ゆっくりと進む。
何かがはじまる予感があるわけじゃない。
ただ、自分が今どこに向かっているのか、それを初めて少しだけ考えていた。
将来のことなんて、これまでぼんやりとしか見たことがなかった。
でも、いまは違った。
何かを選ばなければいけない気がしていた。
風がジーンズの裾をはらう。
遠くで犬が吠える声がした。
狭山は、それに何も思わず、ただアクセルをひねってまっすぐに走っていった。