【日曜の昼下がり、ふたりきりの英語教室】
日曜の午後。
街は穏やかに静まっていて、遠くで聞こえる犬の鳴き声と、ときどき通り過ぎる自転車のブレーキ音が、まるで時報のように聞こえていた。
部屋の中には、ふたり分の気配があった。薄い陽がレースのカーテン越しに差し込み、床にやわらかい光の模様を描いていた。
英語の教科書とノートが机の上に開かれている。
だけど、それを真剣に見ているのは僕だけで、横川は手にした赤ペンをくるくると指で回していた。
教室では見せない、家での私服姿。何でもないトレーナーとジーンズの姿に、妙にどきどきする自分を、まだうまくごまかせないでいる。
彼女は、何も言わずに僕のノートを覗き込んでいた。
髪が肩に落ちて、その先が僕のシャーペンに触れた。シャンプーの匂いがふわりと鼻先をかすめる。
「じゃあ、今日のまとめね」
いつもより少し低い声。
どこか探るような調子で、彼女は教科書のページを軽くペン先で叩いた。
「はい……」
「“I want to”って、どういう意味だった?」
目をそらしたまま、僕は答える。
「えっと……『~したい』、だよね」
「うん、正解。I want to+動詞の原形、で『~したい』」
彼女はさらっとノートに何かを書きつけたあと、ほんの少しだけ、間を置いた。
「たとえば……I want to make love with you.」
その一言は、まるで石を湖に投げたように、静かな空気に波紋を広げた。
声のトーンは変わらない。何気ない授業の一例としての、文法解説のような言い方だった。
だけど、言葉の端々に、すこしの緊張と、ちいさな期待が混じっていた。
彼女は、こちらを見ていた。
目は笑っていたけれど、どこか真剣で、どこか照れていて。
その曖昧なニュアンスを、僕は受け取ってしまった。
「意味、わかる?」
声は少しだけ優しかった。ふだんのふざけた調子よりも、ほんの少し、近い距離で。
「……う、うん」
声が、喉の奥で詰まりそうになった。
その言葉の意味は、知っていた。
けれど、いまこの空間で、その文を口に出すことが、どんな意味を含んでいるのかを、理解してしまったからこそ、うまく息ができなかった。
"make love"
"with you"
文法的には簡単な熟語なのに、なぜか胸の奥に静かに沈んでいく感じがした。
さっきまでいた場所よりも、少し深い場所に、ふたりが一緒にいるような気がして。
ノートの行間が、妙に色っぽく見えてしまった。
彼女は、何も言わずに僕の顔を見ていた。
ペンを持ったまま、肘を机についた姿勢で。
まるで、僕がどういう顔をするのかを待っているように。
僕は、その視線に耐えられなくなって、わざと教科書に目を戻した。
だけど、ページの文字がぼやけて、ちゃんと読めなかった。
【恵のやさしいレクチャー】
「……意味、ほんとにわかってる?」
横川が、ノートの端から、そっと僕の顔を覗き込んだ。
声のトーンは変わらなかったけれど、少しだけいたずらっぽい響きがあった。
僕は、肩が小さく跳ねるのを自分でも感じた。図星だった。いや、見抜かれていたのかもしれない。最初から。
「いや……だいたいは……」
苦しい言い訳だった。言いながら、自分でも無理があるのがわかっていた。
僕は、なぜか教科書の角をめくり返すふりをして、横川の視線から目を逸らした。ページの文字は見えていなかった。
横川は、小さく息を吐いて、それから、少し困ったように──でも、どこか楽しそうに笑った。
「“make love”って、ただ『愛を作る』って意味じゃないよ」
そう言いながら、彼女は自分のノートに何かを書き加えはじめた。
ペンの音が、さらさらと静かに響いた。少し斜めになった字が、彼女の癖を映しているようで、僕は目をそらせなかった。
「好きな人と、気持ちを通わせながら……身体も、近づく感じ」
言葉を選びながら話す彼女の頬が、ほんのり赤く染まっていた。
でも、目だけは真っ直ぐで、まるで嘘のない場所から出てきた言葉だった。
ごまかしも、装いもなかった。
僕は、自分の手がノートの上でわずかに震えているのに気づいて、慌ててシャーペンを握り直した。
けれど、それだけで落ち着くはずもなかった。呼吸のリズムが乱れていた。心音が耳の奥で響いていた。
「つまり……セックス?」
思わず出てしまった言葉だった。口にした瞬間、自分の声が妙に大きく感じられた。
横川は、ほんの一瞬だけ首をかしげた。そして、静かに、確かめるようにうなずいた。
「うん。でもね、ただの行為じゃないんだよ」
彼女の目が、やわらかく細められた。まるでそこに浮かぶ言葉を大切に運ぶための、準備のように見えた。
「好きな人と、心も、体も、ちゃんとつながること」
はっきりとした言葉だった。けれど、どこまでもやさしくて、熱を持っていて、ゆっくりと僕のなかに染み込んでいった。
音ではなく、空気として、言葉が身体に届くような感覚だった。
何かが変わりはじめていた。
部屋の光も、壁の影も、さっきとはどこか違って見えた。風景はそのままなのに、世界が少しだけ静かに揺れているようだった。
窓の外から風が吹いてきた。春の匂いが、やさしく部屋に差し込んだ。
カーテンがふわりと膨らみ、その端がノートをかすめた。ページが少しだけめくれたけれど、誰も何も言わなかった。
ふたりのあいだに言葉はなかったけれど、何かが確かに通っていた。
音のない時間のなかで、互いの気配を感じ合っていた。
ふと、横川が小さく笑った。
声にはならない笑いだった。けれどその笑顔は、目の前にある空気ごとやわらかくしてしまうようなものだった。
「サヤが、ちゃんとわかってくれてよかった」
その一言は、ご褒美のようだった。
彼女の表情が、いつもより少し近くて、僕はうまく呼吸ができなかった。
胸の奥が静かに軋んでいた。
【あいつはもう、いない】
横断歩道の前で赤信号に足を止めた瞬間、ふと思った。
僕の手には、横川の手がある。
まだ少し冷たい春の風のなかで、その手だけがやわらかくて、あたたかい。
好きな人とキスをして、
好きだと伝えて、
手をつないで歩いている。
それだけのことなのに、胸の奥が、ざわついていた。
何でもない風景が、特別に見えるような感覚。
アスファルトの照り返しも、電線越しの空も、
いつもと同じはずなのに、ほんの少し、色が濃く感じられる。
こんなふうに世界が見える日が、
自分にも来るなんて思わなかった。
でも。
その「少し前」にいた僕は、
もう、ここにはいない。
──そして、あいつも。
数ヶ月前。
仲間内で一番先にバイクの免許を取ったあいつが、事故で逝った。
前日までふざけていた声が、朝には永遠に聞こえなくなった。
あまりに突然で、現実味がなかった。
だけど、教室の空席が、それを否応なく思い出させた。
放課後、ふたりで並んで下校した道。
くだらない話をしながら、意味もなく寄り道したコンビニ。
あのとき僕がもっと何かを言えていれば、と何度も考えた。
でも──何をしたって、間に合わないことがある。
それを知ってから、
僕の中の時計は、ほんの少しだけ速くなった気がしている。
日々が少しだけ、重たく、でも確かに、進むようになった。
今、こうして彼女の手を握っている。
それが偶然なのか、選ばれた結果なのかはわからない。
だけど、風の匂いも、彼女の体温も、光のゆらぎも、
ぜんぶ、いまここにあるものだ。
そして、今しか触れられないものだ。
ときどき、ふっと我に返るようにして、遠くを見つめる。
夕方の光の中、隣を歩く彼女の手を、そっと握り直す。
彼女は何も言わない。
ただ、少しだけ指に力を込めて、握り返してくれる。
そのたびに、思う。
ちゃんと生きなきゃって。
後悔しないように、この日をちゃんと生きなきゃって。
それが、僕にできる唯一の──あいつへの答えのような気がしている。
【コンドームという冒険】
夜になって、僕はこっそり家を出た。
寝静まった廊下を音を立てないように歩き、ドアの開閉も、猫のような動作で済ませた。
行き先は、駅前のコンビニ。
目的は、ただひとつ──コンドーム。
それだけのことなのに、人生でいちばん心拍数が上がっていた。
入店するだけで、全身の皮膚がセンサーみたいになっていて、視線や物音がやたらと大きく感じられた。
最初は雑誌コーナーで『Tarzan』を眺める。
つづいてアイス売り場で、ピノかガリガリ君かを真剣に迷うフリ。
ガムを手に取る。栄養ドリンクの棚の前では、「テスト勉強がんばってます」みたいな顔も演じた。
でも、わかっていた。
あの棚の、一番上の、あの小さな箱。
それが、今夜の僕にとっての通過儀礼だということを。
手が震えていた。
呼吸が浅くなって、Tシャツの中まで心臓の音が響いていた。
誰もこちらを見ていないのに、「……お買い物ですか?」と聞かれているような気がしてならなかった。
意を決して、ガムとともにレジへ。
そっと、でも確かに、例の箱をカゴに滑らせた。
「……袋、要りますか?」
その問いに、少しだけ声が裏返った。
「い、いります……!」
店員は、予想に反してまったく無表情だった。
帰り道、袋の中で小さく揺れるその箱の存在感に、やたらと意識がいった。
耳の裏まで熱くなりながら、一歩ごとに足取りが重くなる。
まるで、これから「父になるかもしれない試練」に向かっているような感覚だった。
家に着くと、誰にも気づかれないよう風呂場に直行した。
あとは、もうひとつの準備──
“チェリーのチェリー”のための、静かなる訓練である。
シャワーのノズルを手に取り、
ぬるま湯で、そっと、慎重に当ててみる。
冷たくはない。熱くもない。
だが、それでも体がビクッと跳ねた。
「……弱すぎるのも問題か」
ひとりごとで誤魔化しながら、水圧を微調整。
感覚の鋭さを鈍らせるための、いわば“童貞なりの早漏対策”である。
なんだこれは、と冷静な自分がどこかで見ていた。
だが、その訓練は──
開始から1分で、ほぼ終わりかけた。
──これは、まずい。
洗面台に手をついて、深呼吸を繰り返す。
湯気に曇った鏡に映る顔を見て、僕は思った。
「オレは、お前の分まで、がんばる」
それは、亡くなった林田への、勝手な誓いだった。
何かを託されたわけじゃないけれど、
どこかで彼に応援されている気がして、胸の奥が熱くなった。
鏡のなかの自分は、少しだけ大人びて見えた。
もちろん、それは気のせいかもしれない。
でも、その“気のせい”にすがりたい夜もある。
【正直な誘い】
その日も、いつものように僕の部屋で勉強していた。
窓の外には淡い夕暮れが降りてきていて、レースのカーテン越しに差す光が、ノートのページを少しだけ黄色く染めていた。
英単語帳と赤シート、それから使い込んだ問題集が机に並んでいる。
ときどき目が合って、そのたびに、ふたりとも小さく笑った。
それだけのことが、なんだかうれしかった。
目の奥の、もっと深いところで、少しずつ確かめ合っているような感覚だった。
この時間が、日に日に特別になっているのがわかっていた。
ただの勉強じゃない。
そこにある空気や体温に、すこしずつ言葉にならないものが混じってきていた。
だけど──
このまま、今日も“なにもないまま”でいいのか。
いや、よくない。
そんな風に思っている自分が、確かにいた。
林田の声が、ふと頭の中で蘇った。
学校の帰り道。
「……てかさ、おまえ、横川とはもうやったの?」
唐突すぎて、咄嗟に聞き返した。
「は?」
「いや、ほら、付き合ってけっこう経つじゃん。そういう話とか、出てるのかなって」
林田は、いつもの半笑いで缶コーヒーのタブをはじいていた。
僕は、小さく首を振った。
「……まだ、だよ」
そしていま、彼女がノートに蛍光ペンを走らせているその横顔を見ながら、
僕の中に残っていた“ためらい”が、ふっと形を変えた。
机に並んだ教科書の端を見つめながら、僕は言った。
小さな声だった。自分の声が、自分の耳にもくぐもって聞こえた。
「……今日、さ。しばらく誰も帰ってこない」
ペンの動きが止まった。
横川が、そっと顔を上げて、僕を見た。
「好きな人と、心も、体も、ちゃんとつながりたいと……マジで思ったんだ」
瞬間、空気の密度が変わった。
何かを割ったような静けさ。
自分の声だけが、部屋のなかにぽつりと残っていた。
横川は目をまんまるにしていた。
まるで、予想していなかったものを手渡されたような顔だった。
そして──数秒後、ふっと笑った。
「ほんと、ムードも何もないんだね」
言葉にはあきれたような響きがあったけど、その目はやさしかった。
僕は、ちょっとだけうつむいて、ぼそりと答えた。
「……ごめん」
「でも、サヤらしいよね」
彼女は、ノートの端をそっと閉じて、身体を少しだけこちらに向けた。
その動きには、どこかゆるやかな肯定の気配があった。
「好きな人と、気持ちを通わせながら……身体も、近づく感じね」
それは、英語の授業で彼女が口にした言葉だった。
そのときはただの例文だったけれど、いまはふたりの“合図”になっていた。
心の奥に届くように、静かに、あたたかく響いた。
僕は、ただ頷いた。
それだけで、充分だった。
言葉はもういらなかった。
ゆっくりと手を伸ばして、
彼女の手を、もう一度、そっと握った。
【ボタンがはずれない】
ふたりして、ベッドの端に腰を下ろしていた。
マットレスが小さく沈んで、お互いの重みがわずかに伝わってくる。
けれど、どちらからともなく、ほんの数センチだけ間をあけていた。
ノートは閉じられ、教科書はテーブルの端に片づけられていた。
もうそこに勉強の名残はなくて、代わりに、静かな緊張だけが漂っていた。
目の前にいるのは、
さっきまで英語の文法を教えてくれていた横川じゃない。
ボクの恋人として、そこにいる横川だった。
部屋のなかはやけに静かだった。
窓の外からは、遠くの犬の鳴き声が一度だけ聞こえて、すぐに消えた。
時計の針が壁の奥で規則的に音を刻んでいるのが、やけに大きく感じられた。
ボクは、ゆっくりと手を伸ばして、
横川の肩にそっと触れた。
その動きに、自分でも少し驚いていた。
けれど、横川は逃げなかった。
ほんの一瞬の沈黙のあと、彼女は小さくうなずいた。
そのうなずきが、合図になった。
視線を合わせると、彼女も静かにこちらを見ていた。
目を逸らすのが惜しいような、でも、少し怖くなるような、そんな距離感だった。
ボクは、彼女のシャツに指を伸ばして、
そっと、一番上のボタンに触れた。
──だけど、はずれなかった。
指先に力が入りすぎたのか、あるいは逆に抜けていたのか、
ボタンは固く、指からすり抜けた。
もう一度挑戦する。でも、また失敗した。
「……あれ?」
小さくつぶやいた声が、部屋にひとつだけ浮かんだ。
焦りではない。戸惑いだった。
そして、それを誰よりも先に察したのが、横川だった。
彼女は、ボクの手元を見ながら、小さく笑った。
目元だけがやわらかく緩んでいた。
「……ボタン苦手?」
その言い方には、冗談の響きが少し混じっていたけれど、
どこか安心させようとする気持ちも含まれていた。
ボクは小さくうなずいた。
「……はずせる気がしない」
情けないくらい正直な声だった。
横川は何も言わずに、自分の手をそっとボクの手に重ねた。
彼女の指先が、ボクの指の間にするりと入り込んで、
ふたりでひとつずつ、ボタンに触れた。
布地のあたたかさ、爪先の感触、指が触れるたびに少しずつ重なっていく呼吸。
その時間には、何のBGMもなかった。
ただ、ふたりの静かな動きと、
これから起きることを受け入れるための、やさしい緊張だけがあった。
【キスから始まる】
「……こっち、来て」
「うん……」
「目、つぶって」
「えっ……あ、はい……」
「……ドキドキしてる?」
「してる。……めちゃくちゃ」
「じゃあ、もう一回、キスしてもいい?」
「うん」
「……サヤ、手……もうちょっと、上」
「え、上……?」
「うん、そこじゃなくて……」
「ここ?」
「ううん、もうちょっと……こっち」
「あっ……ここ……?」
「うん。……そのまま、動かしてみて」
「……柔らかい」
「ふふっ、なにその顔」
「すごい……ほんとに……」
「なにが?」
「……夢みたい」
「次は……外して?」
「え、全部?」
「うん。やってみて」
「わ、わかった……じゃあ、えっと……こっちの……」
「それ、スカートじゃないよ」
「ちがうのか……ごめん、シャツ、シャツ……」
「ボタン、ね?」
「うん……ゆっくりでいいよ。落ち着いて」
「うわ、緊張する……」
「こっちのが緊張するんだけど」
「……ごめん、あ、外れた。次……」
「うん……よくできました」
「脱がせた……ほんとに……脱がせた……」
「サヤ、顔こわばってる」
「だって……うわ、これ……ブラ、だよね……?」
「そうだよ。どうする?」
「取って……いいの?」
「うん。……後ろ、引っかけてるだけだから」
「まじで……うしろ……これか、これ……? あれ?」
「サヤ、手つきが雑」
「ご、ごめんっ、あ、ちょっと待って、わかった、ここ!」
「……うん、外れた」
「………………っ」
「そんなに固まらないで」
「だって……だってこれ……本物だよ……」
「うん」
「本物……だ……」
「サヤ、息止まってる」
「ちょっと……感動してる……」
「なんか、うれしい」
「次は、サヤの番だね?」
「……え?」
「脱がせるね」
「あ、うん……ちょっと待って、心の準備が……」
「ダメ。脱がすよ?」
「うわっ、ちょ、まって──」
「うん、こっちのが早いね」
「早いって……脱がすの、横川うますぎる……」
「慣れてるっていいたいの.....怒るよ....あといい加減、横川ってやめてよ」
「ごめん....恵?」
「正解。じゃあ、つぎ……下、も」
「え、まって、それは……」
「なに?」
「いや、ほんとに……いいの?」
「サヤが見たいなら、いいよ」
「……えっと、これ、どっちから……?」
「優しく、ね。引っ張りすぎると破けるから」
「うわ、まって……これ……」
「どうしたの?」
「なんか……神々しい……」
「笑わせないでよ」
「だって……ほんとに……こんなふうに……」
「うん」
「もう、やばい……心臓の音がうるさい……」
「じゃあ、サヤも脱いで?」
「え、ここで?」
「ここで、って……ここしかないでしょ」
「う、うん……じゃあ……はい……」
「……サヤ」
「はい……」
「ちょっと……触ってもいい?」
「まじで……? いや、でも……その……ちょっと……!」
「なに?」
「なんか、ヤバいかも」
「ヤバいってなに?」
「……爆発するかも……」
「大丈夫。壊れたりしないから」
「いや……ほんとに……なんか、やばい」
「じゃあ、ちょっとストップする?」
「いや、ストップしたくない……けど……」
「可愛い……ねえ、今度はサヤの番」
「えっ、あ、うん。どうやって?」
「どうやってって……」
「……ど、どのへんだった?」
「もう、観察しすぎ。はい、こっち」
「はい……ん? あれ?」
「そこじゃない。……ちがうちがう、下、もうちょっと下」
「下ってどのくらい下? え、ここ?」
「ううん、そこはお腹……」
「じゃあこの辺……あれ?」
「も〜、サヤ、落ち着いて」
「落ち着いてる……つもり……たぶん……」
「じゃあ今度は、わたしが……ね?」
「えっ、あ、うん、はい……」
「力、抜いてて」
「うわっ……ちょ、ちょっと待って、今、今なにが……」
「大丈夫?」
「やばい、まじでやばい……」
「だめだよ?」
「がんばる……」
「じゃあ、そろそろ……アレ、つけてみる?」
「指がすべる……落ち着け、オレ……」
「そっちじゃなくて、逆にして」
「えっ、これ逆?」
「そう。内側、そっち」
「……装着、完了……かも」
「かも?」
「いや、たぶん。……よし、いくね?」
「うん。ゆっくりね」
「えっと……あれ?」
「なに?」
「どこだ……?」
「なにが?」
「わからない……」
「え……?」
「いや、あれ……」
「方向ちがうかも」
「マジか……これ無理……」
「大丈夫、ちゃんと導くから」
「……よし、じゃあ……」
「……あれ?……うそ……」
「なに?」
「……柔らかい……」
「えっ……オレ、だめかもしれない……」
「ぷっ……」
「わらわないで……」
「ごめん……でも、ちょっとだけ笑っても.......」
「うわああああ……」
「……もう、見てられないなあ」
「……えっ」
「任せて。寝て……目、閉じててね」
「え、なにするの?」
「いいから。力、抜いて」
「う、うん……」
「……っ……」
「な、なに? 今、なにしたの……?」
「なにもしないよ。ちょっと触っただけ」
「え、ちょっとで……?」
「ちょっとだけ」
「……復活してる……」
「でしょ?」
「なんか……魔法かけられたみたい……」
「うん、魔法ってことにしとこっか」
「すげぇ」
「すごいでしょ」
「……やっぱり、さすが経験──」
「言うな!」
「はい……」
「……じゃ、いくよ?」
「うん……」
「いくよ?」
「う、うん……ゆっくり……」
「……っ……」
「大丈夫?」
「うん……全然、いたくないよ」
「……ほんとに?」
「うん。そっちは……?」
「……痛くない……」
「……そっか。よかった」
「……繋がった、んだよね……?」
「うん。ちゃんと、繋がったよ」
「恵……」
「なに?」
「ありがとう」
「こちらこそ」
身体が、静かに近づいていった。
額と額が、かすかに触れるくらいの距離。
ふたりの息づかいが、同じリズムを刻みはじめる。
そのとき、横川がそっと目を閉じて、言った。
「こっち見て」
視線が重なったまま、唇と唇が、静かに触れ合った。
それは、さっきまでのキスとは違っていた。
やさしくて、真剣で、
ふたりだけの時間が、確かにはじまっていく、そんな感触だった。
声も、体温も、呼吸も、
すべてがすぐそばにあった。
ふたりの境界線が、少しずつ、滲んでいく。
もう、言葉はなかった。
ただ、手と手が、
身体と身体が、
お互いの存在を確かめるように重なっていった。
少しだけ、怖さは残っていた。
けれど、それよりも大きかったのは──
横川が、ここにいてくれるという確かさだった。
どれくらいの時間が経ったのかは、もうわからなかった。
やがて、横川がそっと、額にキスを落として言った。
「So… I guess I popped your cherry.」
僕にはその意味がわからなかった。
何も言わずに、静かに彼女の肩を抱いた。
その手は、もう、少しも震えていなかった。
【ちょっとだけ違う放課後】
月曜日の放課後、昇降口の前で横川が待っていた。
制服の袖を、くいっと引かれて、
「帰ろう」とだけ言われた。
ふたり並んで歩くのは、もう何度目かわからない。
それなのに、歩幅を合わせるのに、ほんの少しだけ時間がかかった。
信号を渡るとき、
ボクはポケットから手を出して、
何気なく、横川の手を握った。
横川は、少しだけ驚いた顔をした。
でもすぐに、やさしく笑って、ぎゅっと握り返してくれた。
その瞬間、
昨日の夜が、まるで夢じゃなかったと証明された気がした。
商店街の看板。
風にゆれる街路樹。
すれ違う制服の背中。
全部いつも通りなのに、
世界だけが、ほんの少し明るく見えた。
「ねえ、明日の英語の小テスト、出そうなとこ教えてくれる?」
「うん。助動詞のあたり、怪しいよ」
「じゃあ、……ボクの部屋、来てくれる?」
「もちろん」
ふたりとも、顔には出していないけど、
たぶん同じことを思っていた。
でも、それは言わない。
言わなくても、伝わる。
春の風が、ふたりの間を通り抜けていった。
少しだけ髪がなびいて、
横川がそれを抑えるしぐさが、
ボクにはやけにきれいに見えた。
ただ歩いているだけ。
でも、確かにふたりは変わった。
なにも言わなくても、
その手のぬくもりが、すべてを語っていた。