サヤはギターを片付けながら、 適当に音響スタッフに軽く会釈してステージを降りた。
客席も一旦ゆるい空気に包まれる。 ドリンクを買いに行くやつ、立ったまま喋るやつ、座り込むやつ── ライブハウス独特の、だらっとした時間。
他のバンドが演奏している最中、テルがスマホを祐介に突き出していた。 騒がしい音の波のなかで、サヤはふと気配を感じ取り、そっと目線を向けた。 祐介は身を乗り出し、画面を覗き込むと、たちまち目を見開いた。
制服姿に、長い黒髪。 横顔に見覚えがあった。 ──森 万里子(もり まりこ)。
小学校のころから男子たちの憧れだった。 森は派手なわけではなかった。 いつも自然体で、無理に明るく振る舞うこともなく、ただそこにいるだけで、周囲の空気を柔らかくするような存在だった。
サヤにとっても、森は特別な記憶を持つ相手だった。
あの日、仲良しグループで行った遊園地でのことだ。 コーヒーカップの激しい回転に耐え切れず、乗り物酔いでぐったりしていたサヤを、誰よりも早く見つけてくれたのは森だった。 森は何も言わず、当たり前のようにサヤの手を取った。 小さなその手は驚くほど温かく、心細かったサヤの胸にじんわりとしみてきた。 引かれるままに歩き、ベンチに腰を下ろしたとき、森がそっと背中をさすってくれたことも、今でも忘れられない。
そんな森と、テルは中学二年生のときから付き合っていた。 最近まで、続いていたはずだった。
「……え、これ……森、だよな?」
祐介が低くつぶやき、サヤはかすかに眉をひそめた。
テルはニヤニヤと笑いながら、スマホの画面を指で滑らせる。
「もっとあるぞ。ほら、これとか」
森の写真が次々と映し出される。 制服のすそが乱れたもの、髪がほどけたもの、無防備な表情のもの。
それは、明らかに誰かに見せるためのものではなかった。
森に振られた腹いせなのか、それとも“こんな女と付き合ってた”という歪んだ自慢なのか、テルの表情からは何も読み取れなかった。
祐介はごくりと唾を飲み込み、「……すげぇ……」と小さな声で漏らした。
「……もっと見えてるやつ、ないの?」
祐介の声は震えていた。 期待と興奮が、抑えきれずににじみ出ていた。
サヤは顔をそむけたくなった。 胸の奥に、冷たい塊が落ちたようだった。
テルと祐介が、スマホを手にこちらに向かってくるのがわかった。
「サヤ、お前も見るか? やべーぞ、これ」
軽いノリで、テルがスマホをサヤの前に差し出す。
サヤは、無言でスマホを押し返した。
「……やめろ」
声は低く、抑えられていた。 けれど、その底に宿る怒りは、空気を震わせるほどに濃かった。
隣にいたわたるも、眉をひそめ、苦々しい表情を浮かべていた。
「なぁ……お前、どうしたんだよ」
わたるの声は、普段の軽口とは違う、芯の通った低い響きだった。
「そういうことするやつじゃなかったろ。 好きで付き合って、惚れあってたんじゃねぇのか? だったらよ、別れたあとだって、相手を応援してやるのが男だろ。笑われてんのは、あいつじゃなくて、今のお前だよ」
わたるは一拍置き、祐介にも鋭い視線を向けた。
「お前もだ。そんなもん見てニヤついてるとか、マジでダセぇからな」
祐介はばつが悪そうに目を逸らし、ゆっくりと顔を伏せた。
テルは一瞬、唇を引き結んだが、それでもなお引き下がらなかった。
「……でもさ、お前らも見たいんだろ? 森の裸だぞ? もっとすげぇの、見せてやるって」
その言葉を聞いた瞬間だった。 サヤの手が、無意識のまま動いていた。
パシン、と鋭い音を立てて、テルの手からスマホをはたき落とした。
ガシャン、と乾いた衝撃音。
スマホは床を跳ね、転がり、静止した。
あたりに、重い沈黙が落ちた。
テルの顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。 怒りと屈辱に耐えきれないように。
「──ふざけんなよ!」
叫び声が空間を突き破る。
テルは床からスマホを拾い上げ、画面が蜘蛛の巣のようにひび割れているのを見て顔をしかめた。
「……どうすんだよ、これ。マジで割れてんじゃん」
怒りを隠そうともせず、サヤに詰め寄る。
そのときだった。
祐介が、無言で横から手を伸ばした。 テルの手からスマホを取り上げると、ためらいなく床に叩きつけた。
スマホは高い音を立て、バラバラに跳ねた。
祐介はその破片を見下ろし、再び、無言で足を振り上げる。
そして──ぐしゃり、と踏みつけた。
液晶が砕け、カバーが外れ、内部の破片が飛び散った。
さらに一度、深く踏みしめる。
テルが反射的に祐介に詰め寄ろうとするが、祐介は左手を静かに伸ばし、無言のまま押しとどめた。
その動きには、暴力的な勢いはなかった。 だが、それ以上に強い、絶対に譲らないという気迫があった。
「……こんなの、残ってたらまた見たくなっちゃうから」
祐介が、静かに言った。
わたるが一歩前に出て、低い声で続ける。
「文句があるなら──サヤか祐介とタイマンして、腕っぷしで語れ。お前が勝ったらスマホ代は俺が払ってやる」
「それが、ガキのころからの俺たちのルールだろ」
そんなルール、聞いたこともなかった。 サヤは内心、乾いた笑いを漏らしながらも、わたるの横顔を見て何も言わなかった。
「もし祐介とサヤにビビってんなら、俺が相手になるぜ。選べよ」
わたるの声には、一切の冗談がなかった。
祐介は無言で首を横に振った。
テルは、わたる、サヤ、祐介の順に、無言で視線を滑らせた。 冷めた目だが、どこか意地を張るような硬さも滲んでいた。
サヤは息を潜めたまま、じっとその様子を見ていた。
──誰を指名するつもりだろう。
祐介は、普段は温厚だが、本気になれば手がつけられない。 彼とやり合えば、ただの喧嘩では済まない。 命に関わるかもしれない。
わたるも同じだった。 軽口を叩いていても、いざとなれば容赦はしない。 あの眼差しを見ればわかる。わたるは、本当に怒っている。
消去法で、残るのは自分しかいなかった。
サヤは小さく喉を鳴らした。
ふと横を見ると、横川がこちらをじっと見つめていた。
もしここで自分が指名されれば、やり合うしかない。 逃げたら、それこそ全部が無駄になる。
でも、彼女の前で、殴り合いなど絶対にしたくなかった。マルバツとかオセロとかじゃダメなのかな。まぁ、ダメだろうなとため息をついた。
少し離れた場所では、キムとリコが顔を寄せ合い、小声で何かを話していた。 ちらりとこちらを見ながら、どうフォローするかを相談しているのが伝わってきた。
テルはわたるとサヤと祐介の目を見比べた。 沈黙のなか、何も言わず、スマホの残骸を拾い上げた。 ガラス片が指に引っかかるのも気に留めず、テルはそのまま踵を返して歩き出す。
わたるはその背中に、ぼそりと声をかけた。
「──もし、またこんな真似してるって噂が耳に入ったら、 マジで湖の森ん中に埋めるからな」
その声には、冗談とも本気ともつかない、妙に生々しい響きがあった。
水源地に人を埋めるのは、さすがにアウトだろ──と、サヤは心の中でひっそり突っ込んだ。
テルは振り向きもせず、片方の肩を小さくすくめるだけで応えた。 その背中からは、言い訳も、反省も、何も感じ取れなかった。
サヤは会場の隅へと歩き、ひとり腰を下ろした。
薄暗い照明の外れた場所。 埃っぽい床に座り込み、両膝を抱えて靴の先を見つめる。
……やっちまったな。
小さな後悔が、胸の奥で鈍く疼いた。
最初に手を出したのは自分だ。 理由は間違っていない──そう思ってはいる。 でも、だからといって、この変な後味の悪さが消えるわけではなかった。
心の奥に、ぬるく淀んだものが溜まっていく。 まるで、静かに澱んだ湖の底に引きずり込まれるような感覚だった。
遠くで、再び始まった音楽が小さく流れ始めた。 ギターのイントロが、途切れがちに耳に届く。
その音が、今のサヤにはひどく遠く、冷たく感じられた。
──そのとき。
「ま、あたしがうまいことフォローしとくから」
軽い調子の声とともに、リコが隣にやってきた。
彼女はしゃがみこみ、ぽんとサヤの肩を軽く叩いた。
その一拍には、ふざけたようでいて、確かな優しさがこもっていた。
リコはサヤの顔を覗き込み、にっと笑った。 「気にすんな。みんな、ちゃんとわかってるから」
サヤは、うまく返事ができなかった。 喉がつかえたようになり、声にならない。
ただ、小さくうなずいた。 その小さな動きに、リコは満足したように立ち上がり、ぽんぽんとサヤの頭を叩いていった。
ふたたび音楽が広がる。 少しずつ、会場全体に温かさが戻っていくのを、サヤはぼんやりと感じながら、目を閉じた。
ライブハウスの重いドアを押し開けた瞬間、 夜の冷たい空気が、まるで長いあいだ堪えていた感情のように、一気にサヤたちを包み込んだ。 肌を撫でる風は、春を待ちきれずに焦る子供のように、どこか不器用で、ほんの少し湿っていた。 濡れたアスファルトから立ちのぼる匂いが、鼻腔をくすぐる。 どこか甘く、けれど、少し寂しげな匂いだった。
ギターケースの重みを背に、サヤは小さく息を吐いた。 その吐息さえ、すぐに夜に溶けて、消えていった。
ふたりは、自然に肩を並べて歩き出した。 コツ、コツ、と、かかとの低い靴がアスファルトを叩く音が、かすかに響く。 小さく揺れる影が、街灯の下でふたつ重なりそうになって、けれど、ぎりぎりのところで重ならずに揺れている。 肩と肩が、触れそうで触れない。 その微妙な距離が、逆に、どこまでも温かかった。
ふと横を見ると、恵はただ、まっすぐ前を見つめていた。 責めるでも、慰めるでもない、ただ、そこに在るだけの静かな表情。 薄く光る唇、柔らかに揺れる前髪、そのすべてが、夜の空気の中で不思議なほど静かに、澄んで見えた。
サヤは、その横顔に目を向けながら、心の中でそっと呟いた。 ……ごめん。
伝えたい言葉は、喉元まで込み上げていたのに、うまく形にならなかった。
せっかく来てくれたのに、もっと、 心から楽しかったって、そう言わせたかった。
「私、今日来てよかったよ」
不意に、恵が口を開いた。 小さな声だったけれど、その響きは夜の静けさに染み込むように、はっきりと耳に届いた。
サヤは、呆然と恵を見た。
「すごく、かっこよかった」
恵は、そう言って笑った。 それは飾り気のない、まっすぐな笑顔だった。