小さなライブハウスの入り口に、横川が立っていた。西の空にはまだ、淡く滲むようなオレンジ色が残り、街路樹の影が細く長く伸びていた。風は穏やかで、どこか埃っぽい匂いが漂っている。横川は白い上着の袖を、指先でそっとつまみ、所在なさげに視線を巡らせていた。
サヤは、そんな横川に気づくと、静かに手を振った。
「お待たせ」
その声に、横川ははっと顔を上げ、すぐに笑みを浮かべた。軽やかな足取りで駆け寄ると、アスファルトの上にスニーカーの小さな音がリズムを刻んだ。
サヤは横川の白い上着の袖に、指先でそっと触れた。軽く引くと、横川は何も言わずに自然な動きでその隣に並ぶ。ふたりの間に流れる空気が、少しだけやわらかくなった。
小さな鼓動を抱えたまま、ふたりはライブハウスの扉を押し開けた。中から漏れてくる低くうなるようなベース音と、人いきれを含んだ暖かい空気が、頬を優しくなでた。
薄暗い空間の中、機材チェックを終えた仲間たちが、それぞれ思い思いに体をほぐしていた。アンプの前でコードを巻く者、ドラムセットを叩いて音を確認する者、スピーカーから漏れるかすかなフィードバック音。
最初に声をかけたのは、金髪パンチパーマのわたるだった。真っ赤なラコステのVネックセーターに黒いボンタン、足元は雪駄。生粋の昭和ヤンキーそのものといった強烈な出で立ちで、照明の下でもひときわ目立っていた。
「サヤの友達か。初めまして。わたるって言います」
落ち着いた声で、自然に頭を下げるわたるに、横川も少し驚いたようにしながら小さな笑顔を返した。
わたるは、すぐ隣にいたもう一人の男を顎でしゃくる。
「こっちは祐介」
紹介された祐介は、呼ばれたことにワンテンポ遅れて気づいたように、「あっ、ど、どうもっ」とぎこちなく頭を下げた。作業着のようなワークシャツに油じみたジーンズ、がっしりした肩。素朴な風貌がそのまま彼の人柄を映していた。
祐介──小中と一緒だった昔からの腐れ縁だ。女子に対しては、今も昔も壊滅的に不器用。素直ではあるが、ズレた受け答えで場を凍らせることもしばしばだった。細身ながら、体はバネの塊のようにしなやかで、今では本気でプロボクサーを目指してジムに通っている。
横川はそんな祐介に、優しく笑いかけた。祐介は、まるでどうしていいかわからないように、石像みたいに直立不動になっていた。
その間を縫うように、すっと割り込んできたのがリコだった。
「やっほー、恵ちゃん? ボーカルのリコだよ。よろしく!」
リコは、手をひらひらと振りながら、にかっと明るく笑った。その様子は、まるで旧知の友人に接するかのように自然だった。
横川も、リコの飾らない挨拶に少し緊張をほぐされたのか、「うん、よろしく」と軽く笑った。その笑顔に、リコは「うんうん」と満足げに頷いた。
「で、こっちがドラムのテル!」
リコが言うと同時に、横にいた長身の男が一歩前に出た。黒いスウェットに身を包み、軽やかな動きで横川の前に立つと、柔らかな笑顔で手を差し出した。
「テル。ドラムやってる」
その声には、どこか人懐っこい響きがあった。
横川も少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐににこっと笑い、「よろしく」と言って手を差し出した。
テルはその手を軽く握り、「こちらこそ」と短く答えた。すぐに一歩下がり、控えめにその場にとどまる。その一連の所作に、余計な力みはどこにもなかった。
このメンバーで組んでいるバンドが「リコバンド」だった。バンド名は仮でつけたはずが、誰も真剣に考え直すこともなく、そのまま定着した。
演奏するのは主にセックス・ピストルズやザ・クラッシュ。荒々しくて、勢いだけで押し切るようなパンクナンバーばかり。完成度や技巧にはこだわらない。ただ、好きな音を、仲間内で全力で鳴らして楽しむ。それが、リコバンドのすべてだった。
ひととおり紹介が終わった頃、PA卓の前でケーブルをまとめていたキムが、ふと顔を上げた。
リコバンド──名前こそボーカルのリコから取られているが、実質、このバンドを最初に集め、方向性を決めたのはキムだった。メンバーそれぞれの特性を見極めて割り振り、演奏する楽曲もキムが中心になって選んでいる。パンクという荒っぽいジャンルを選んだのも、初心者にもできるシンプルなスタイルを重視したからだ。
わたるは、持ち前のヤンキーコネクションを生かしてチケットを売りさばいたり、後輩をライブに呼び込んだりしているが、運営や中身はほとんどキムの手によるものだった。
ライブハウスの奥、モニター越しにぼんやりと光る機材たち。その隙間から、キムの細身の体が見えた。白い指先が手際よくケーブルをさばき、無駄のない動きでまとめていく。
「……あれ、横川さん?」
キムの声は、ノイズに満ちた空間にあって、妙にクリアに響いた。
「あ、木村くん」
横川がほっとしたように笑って、手を小さく振った。表情には、少しだけ緊張の影が解けたような柔らかさがにじんでいる。
キムも口元をゆるめて、軽く会釈する。彼特有の、静かな笑みだった。
「今日来てくれたんだ。ありがとう」
「うん、楽しみにしてた」
横川とキムとサヤは、同じ進学校に通っている。キムは子どもの頃からピアノを習っていて、基礎的な音楽知識やリズム感を持ち合わせていたし、横川も吹奏楽部で金管楽器を担当している。お互いに音楽に親しんできた共通点が、静かに信頼感を生んでいた。横川とキムは、サヤを介して高校ですでに何度か顔を合わせたことがあり、気心までは知れていないものの、互いに穏やかな印象を抱いていた。ふたりとも、どちらかと言えば控えめで、目立つことよりも確かなものを求めるタイプだ。
「じゃあ、またあとでね」
横川のひとことに、キムは「うん」と短く頷き、再びケーブルに指を這わせた。その後ろ姿は静かで、しかし確かに、リコバンドを支える屋台骨のひとつだった。
ひと通り紹介が済んで場が和みかけたところで、 リコがニヤニヤしながらサヤに近づいてきた。
「ねえねえサヤぁ、紹介するとき、めっちゃ顔赤かったんだけど? 恵ちゃんってさ、吹奏楽部なんでしょ? ああいう真面目そうな子、サヤ好きそうだよね〜」
肘で軽く小突きながら、わざとらしく大きな声を張る。その声が、ステージ横にいた祐介や、後ろで機材をいじっていたわたるの耳にも届いた。
「やめろって、本人の前でそんなこと言うなよ」
サヤは唇をかすかに引き結びながら低く返した。耳の裏までじわじわと熱くなっているのを自覚しながら、なんとか平静を装おうとした。リコのからかいは、いつもながら手加減がない。
わたるがすかさずその隙間に割って入ってきた。
「いや〜、ついにサヤも春到来かぁ!」
親戚のおじさんみたいな調子でにやにやとしながら、横川のほうへ向き直る。
「恵ちゃん、サヤのことよろしく頼むな!」
突然のことに、横川は目を見開いたまま、短く「うん……」とだけ答えた。照明に照らされた彼女の頬が、ほんのりと紅潮しているのがわかった。