ボクと森は手を繋いで、堤防から続く湖沿いの遊歩道を歩いた。
夜道の向こうに、大きな看板が浮かんで見えた。
「女王様気分になれるホテル クイーン」
「鏡の国のアリス」
森は立ち止まって、ちらりとボクを見た。
「アリスがいいな」
森は小さく笑って言った。
ホテルの部屋の扉を開けると、内側は一面の鏡だった。壁も天井も、床も。ボクは少しだけ目を細めた。
ベッドの縁に腰を下ろした。森は何も言わず、その隣に座った。
二人で仰向けに寝転ぶと、天井に自分たちの姿が映った。鏡の中のふたりは、手を繋いだまま、波紋のようにぼんやりと滲んでいた。触れ合っているのに、どこか夢の中にいるような感覚だった。
しばらく、何も話さなかった。ホテルの空調の音だけが、かすかに聞こえていた。
「ねえ」
森が言った。
「鏡ってさ、自分を見るためのものだけど……自分がどんな顔してるかなんて、見ないほうがいいときもあるよね」
ボクは鏡の中の森の顔を見ていた。本当の顔よりも、少しだけ遠くにある顔。
「……また言ってもいい?」
「何を?」
「“今はそのときじゃないの?”ってやつ」
ボクは目を閉じた。ゆっくりと、また開けた。
「言っていいよ。でも……たぶん、今回は今までとはちょっと違う」
森は黙ってうなずいた。そのまま、二人とも横を向かなかった。ただ、鏡を見ていた。変わらない映像を、変わってしまいそうな時間の中で。
手はしっかりと握ったままだった。
ボクは静かに考えていた。森に聞こえないように、そっと息を吐いた。
ためらいと、微かな痛みが胸に重なる。怖さもあった。 今この瞬間も、すべてが繊細な均衡の上にあった。
隣にいる森は、何も言わず、ただボクの手を握っている。触れれば壊れそうなものを、そっと抱えているようだった。
森がそっと、ボクの手をもう一度握り直した。その指先の震えに、答えるようにボクも握り返した。
何も言わずに、森がボクの方に顔を近づける。ほんの一瞬、恥ずかしそうに小さく笑い、それから決意を固めるように、そっと顔を近づけた。
そして、そっと、唇が触れた。
鏡の中でも、もう一組のボクと森が、同じように寄り添っていた。
外の世界が遠ざかり、音も光も、すべてが二人だけのものになった。
手は離さなかった。
ボクと森は、そっと体を向け合った。
手を握ったまま、顔を寄せた。
森の額が、ボクの額にふれた。
天井の鏡には、手をつなぐ姿ではなく、寄り添うふたりの姿が映っていた。
ボクは森の髪に顔を寄せ、微かに漂う甘い香りを吸い込んだ。まるで湖面を撫でる夜風のように、そっと心をくすぐる香りだった。
森の瞳を見つめると、そこには静かな揺らぎと、どこか切なげな光が宿っていた。呼吸が交わる近い距離で、互いに一歩も引かずに見つめ合った。
森もまた、ボクをじっと見つめ返していた。戸惑いの奥に、どこか小さな決意のようなものを秘めながら。
──それから、すべてがゆっくりとほどけていった。
目を覚ましたボクは、枕元のデジタル時計に目をやった。表示された時刻は、朝を告げていた。
静かに体を起こすと、隣には森がいた。静かな寝息を立てながら、かすかに頬を紅潮させ、穏やかな顔で眠っていた。
その寝顔を、ボクはしばらく黙って見つめた。そっと触れたら、壊れてしまいそうで。ただ見つめることしかできなかった。
乱れた髪と、無防備なまぶたのライン。そのすべてが、夜を越えたあとの、やわらかな温度をまとっていた。
ふと目を上げると、天井の鏡にも、肩を寄せ合ったままのふたりが映っていた。
朝の光の中で、鏡に映る二人は、まだ夜の続きを抱きしめていた。