タクシーの窓の外を、街路樹の若葉が流れていった。
森は窓の外を見ていた。夜の街は静かだった。 信号が変わるたびに、ガラス越しの光が、彼女の頬をやわらかくなぞった。
「このへん、ずいぶん変わったね」
森がつぶやいた。
ボクはうなずいたが、それ以上は言わなかった。
ラジオから、知らない曲が小さく流れていた。
湖の駐車場で降りた。エンジン音が遠ざかると、あたりは急に静かになった。
遊歩道になっている堤防を二人で並んで歩いた。堤防を渡った先には遊園地があり、観覧車がゆっくりと回っていた。
ふと、小学六年生のとき、森を含む何人かでこの遊園地に遊びに来たことを思い出した。
ボクはそのとき、乗り物酔いをしてしまった。コーヒーカップを降りた直後、ふらふらして立っていられなくなった。
森はすぐに気づいて、黙ってボクの手を引いた。 そして、園内の端にあるベンチまで連れていき、そっと座らせてくれた。
あのとき、森は「大丈夫?」と小さな声で言った。その手はとても温かかった。
途中で手すりを越えて、湖側の石段に下りた。石の上に並んで座った。小さな波が足元で反射していた。
湖は広く静かで、暗い水面にぼんやりと月の光が漂っていた。遠くで揺れる観覧車の灯りが、水ににじんで揺れていた。
森がぽつりと言った。
「リコとサヤって、付き合ってるって思ってる人、けっこう多かったよね」
ボクは苦笑いして答えた。
「迷惑な話だよ。高校のとき、リコの彼氏がボクの家の前で待ってて、『俺の女に手を出すな』って詰められたことあるんだ」
森が驚いたようにこちらを見た。
ボクは続けた。
「『ただの幼馴染なので、ボクのことは気にしないでどうぞお幸せに』って丁寧に言ったんだけど、全然信じてもらえなくてさ。ほんとに大変だった」
森がくすっと笑った。
ボクは笑いながら、湖面を見つめた。
「でもさ、あの彼氏、どうしても納得してくれなかったんだよ」
森が首をかしげた。
「どうしたの?」
ボクは苦笑いして、続けた。
「結局、リコも呼んで三人で話すことになったんだ」
森の目が少し見開かれる。
「リコ、どうだった?」
「最初は普通だったけど……途中でリコがブチ切れてさ」
ボクは思い出しながら、笑った。
「『人のこと疑ってんじゃねーよ』って怒鳴って、彼氏にビンタかましそうな勢いでさ。それで向こうも謝って、なんとか仲直りした」
森がクスクス笑った。
「ボクはその様子、ただ呆然と見ながら、なんでこんな目にあっているのかずっと考えてた。今朝靴下を右足から履いたのが良くなかったのかなとか」
隣で森が、やわらかく微笑んだ。 遠くで観覧車が静かに回っているのが見えた。
ふと風が吹き抜けた。湖面に浮かぶ月の光が、さざ波に揺られながら滲んだ。
水面に映る光が、さざ波と一緒に小さく震え、やがて静かに溶けていく。
その光を、森は少し眩しそうに、けれど穏やかに見つめていた。
「ここ、覚えてる? 持久走大会、ここ走ったよね」
「うん。途中で靴が脱げかけて、しゃがんで必死に履き直してたの、まだ覚えてる」
森が笑った。
「あれ、近くにいたカメラ持った先生にバッチリ撮られて、あとでプリント貼り出されてた」
「遠足のときも来たよね。誰か落ちた気がする」
「落ちたっていうか、飛び込んだんじゃなかった?」
森は少し笑いかけて、それきり黙った。暗い湖面を見つめていた。
風が通り抜けた。水面がかすかに揺れた。
「……あのときのこと、覚えてる?」
「どのとき?」
森は少し考えてから言った。
「小学校のとき、オリオン座を観察する宿題があったでしょ。団地の広場で星見て、焚き火して」
「ああ、覚えてる」
誰かが焚き火をしようと言い出して、森がライターを取りに行った。翌日、その場にいた女の子の一人が家でそのことを親に話してしまった。森と仲が良かった子だった。その子の親が学校に伝え、ボクたちは呼び出されて叱られた。
「ライター持ってきたの、私だったからさ。いちばん怒られた。その子、しばらくして学校に来なくなった。私がチクられたからいじめたって噂になって……でも、いじめたわけじゃないよ。ただ、ちょっとムカついて……何も言わなかっただけ」
森は風を見るように、横を向いた。
「なんでもないことだよって、あのとき私が言ってあげてたら、少しは違ったかもしれないって、今でも思う。ほんとは、すぐにでもそう言ってあげたかった。でも、どうしても言えなかった。悔しくて、怖くて、素直になれなかった。私、あの子に助けを求められてたのに、気づかないふりしてたんだ」
森は一度、目を閉じた。それから、静かに続けた。
「だって仲良しだったんだよ。大好きだった。でも、あのときは、自分を守ることしか考えられなかった。私も少し嫌な思いはしたけど、あの子のほうがずっと辛かったと思う。あのときの私は、あの子を傷つけたくないって思ってたのに……いちばん傷つけたんだ」
湖の上を、月明かりが滑っていた。 森の横顔が、光に浮かび上がっていた。
暗い湖面を渡る風が、心地よく吹き抜けた。
ボクはそっと森の手を握った。
あのころ小学生だった森の手とは違う、少しだけ大人びた、でも変わらず温かい手だった。
森は、ボクの肩に軽く寄りかかった。
……ためらいって、記憶には残るけど、思い出にはならないんだよね。
さっき森が言ったその言葉を、ボクは思い出していた。
しばらくして、森が小さな声で言った。
「ねえ、サヤ。あのバーで私が言ったでしょ、ためらいがどうこうって……今って、そのときなんじゃないの?」
ボクは森の顔を見た。 森もまっすぐ、ボクの目を見返していた。
風がまた、湖の上を渡っていった。