6話 湖畔

タクシーの窓の外を、街路樹の若葉が流れていった。

森は窓の外を見ていた。夜の街は静かだった。 信号が変わるたびに、ガラス越しの光が、彼女の頬をやわらかくなぞった。

「このへん、ずいぶん変わったね」

森がつぶやいた。

ボクはうなずいたが、それ以上は言わなかった。

ラジオから、知らない曲が小さく流れていた。

湖の駐車場で降りた。エンジン音が遠ざかると、あたりは急に静かになった。

遊歩道になっている堤防を二人で並んで歩いた。堤防を渡った先には遊園地があり、観覧車がゆっくりと回っていた。

ふと、小学六年生のとき、森を含む何人かでこの遊園地に遊びに来たことを思い出した。

ボクはそのとき、乗り物酔いをしてしまった。コーヒーカップを降りた直後、ふらふらして立っていられなくなった。

森はすぐに気づいて、黙ってボクの手を引いた。 そして、園内の端にあるベンチまで連れていき、そっと座らせてくれた。

あのとき、森は「大丈夫?」と小さな声で言った。その手はとても温かかった。

途中で手すりを越えて、湖側の石段に下りた。石の上に並んで座った。小さな波が足元で反射していた。

湖は広く静かで、暗い水面にぼんやりと月の光が漂っていた。遠くで揺れる観覧車の灯りが、水ににじんで揺れていた。

森がぽつりと言った。

「リコとサヤって、付き合ってるって思ってる人、けっこう多かったよね」

ボクは苦笑いして答えた。

「迷惑な話だよ。高校のとき、リコの彼氏がボクの家の前で待ってて、『俺の女に手を出すな』って詰められたことあるんだ」

森が驚いたようにこちらを見た。

ボクは続けた。

「『ただの幼馴染なので、ボクのことは気にしないでどうぞお幸せに』って丁寧に言ったんだけど、全然信じてもらえなくてさ。ほんとに大変だった」

森がくすっと笑った。

ボクは笑いながら、湖面を見つめた。

「でもさ、あの彼氏、どうしても納得してくれなかったんだよ」

森が首をかしげた。

「どうしたの?」

ボクは苦笑いして、続けた。

「結局、リコも呼んで三人で話すことになったんだ」

森の目が少し見開かれる。

「リコ、どうだった?」

「最初は普通だったけど……途中でリコがブチ切れてさ」

ボクは思い出しながら、笑った。

「『人のこと疑ってんじゃねーよ』って怒鳴って、彼氏にビンタかましそうな勢いでさ。それで向こうも謝って、なんとか仲直りした」

森がクスクス笑った。

「ボクはその様子、ただ呆然と見ながら、なんでこんな目にあっているのかずっと考えてた。今朝靴下を右足から履いたのが良くなかったのかなとか」

隣で森が、やわらかく微笑んだ。 遠くで観覧車が静かに回っているのが見えた。

ふと風が吹き抜けた。湖面に浮かぶ月の光が、さざ波に揺られながら滲んだ。
水面に映る光が、さざ波と一緒に小さく震え、やがて静かに溶けていく。
その光を、森は少し眩しそうに、けれど穏やかに見つめていた。

「ここ、覚えてる? 持久走大会、ここ走ったよね」

「うん。途中で靴が脱げかけて、しゃがんで必死に履き直してたの、まだ覚えてる」

森が笑った。

「あれ、近くにいたカメラ持った先生にバッチリ撮られて、あとでプリント貼り出されてた」

「遠足のときも来たよね。誰か落ちた気がする」

「落ちたっていうか、飛び込んだんじゃなかった?」

森は少し笑いかけて、それきり黙った。暗い湖面を見つめていた。

風が通り抜けた。水面がかすかに揺れた。

「……あのときのこと、覚えてる?」

「どのとき?」

森は少し考えてから言った。

「小学校のとき、オリオン座を観察する宿題があったでしょ。団地の広場で星見て、焚き火して」

「ああ、覚えてる」

誰かが焚き火をしようと言い出して、森がライターを取りに行った。翌日、その場にいた女の子の一人が家でそのことを親に話してしまった。森と仲が良かった子だった。その子の親が学校に伝え、ボクたちは呼び出されて叱られた。

「ライター持ってきたの、私だったからさ。いちばん怒られた。その子、しばらくして学校に来なくなった。私がチクられたからいじめたって噂になって……でも、いじめたわけじゃないよ。ただ、ちょっとムカついて……何も言わなかっただけ」

森は風を見るように、横を向いた。

「なんでもないことだよって、あのとき私が言ってあげてたら、少しは違ったかもしれないって、今でも思う。ほんとは、すぐにでもそう言ってあげたかった。でも、どうしても言えなかった。悔しくて、怖くて、素直になれなかった。私、あの子に助けを求められてたのに、気づかないふりしてたんだ」

森は一度、目を閉じた。それから、静かに続けた。

「だって仲良しだったんだよ。大好きだった。でも、あのときは、自分を守ることしか考えられなかった。私も少し嫌な思いはしたけど、あの子のほうがずっと辛かったと思う。あのときの私は、あの子を傷つけたくないって思ってたのに……いちばん傷つけたんだ」

湖の上を、月明かりが滑っていた。 森の横顔が、光に浮かび上がっていた。

暗い湖面を渡る風が、心地よく吹き抜けた。

ボクはそっと森の手を握った。

あのころ小学生だった森の手とは違う、少しだけ大人びた、でも変わらず温かい手だった。

森は、ボクの肩に軽く寄りかかった。

……ためらいって、記憶には残るけど、思い出にはならないんだよね。

さっき森が言ったその言葉を、ボクは思い出していた。

しばらくして、森が小さな声で言った。

「ねえ、サヤ。あのバーで私が言ったでしょ、ためらいがどうこうって……今って、そのときなんじゃないの?」

ボクは森の顔を見た。 森もまっすぐ、ボクの目を見返していた。

風がまた、湖の上を渡っていった。