5話 タクシー、乗らない? 湖まで

焼き鳥屋に行こうと決めて、ボクは駅への道を歩いていた。

二日前、リコと歩いた夜道。 あのとき少し救われた気がしたけれど、それでも、心に空いた穴は埋まりきらなかった。

家にいても落ち着かず、 どうせなら、と、焼き鳥屋で一人飲みでもしようと思った。 生ビールに、焼き鳥と冷やしトマト。 それが、ボクのお気に入りだった。

夜の駅前を歩く。 コンクリートに落ちたネオンの光が、ぼんやりにじんでいる。

ふと、道の向こうから歩いてくる人影に気づいた。 柔らかく揺れる髪、白いTシャツ、紫色のワイドパンツ。

「森だ」とすぐわかった。

立ち止まりそうになるのをこらえて歩き続ける。 森もボクに気づいて、小さく手を振った。

「サヤじゃん」

弾んだ声だった。 でもその目元には、どこか戸惑いのような色も漏れていた。

森が小さく笑った。 ボクも、つられて笑った。 何も言わず、森の方へ歩いていった。

すれ違う手前で、森が立ち止まった。 かすかに息を弾ませながら、そっと顔を上げた。

「また会ったね」

「うん」

言葉はそれだけだったけれど、不思議と、暖かいものが胸に広がった。

「駅前に『老人と海』ってバーができたの、知ってる?」 「……いや」 「まだ早い時間だし、ちょっと寄ってかない?」

森は、ちょっとだけ首をかしげて言った。

誘うというより──ただ、一緒にいたいみたいな、そんな空気だった。

焼き鳥屋は頭の隅に押しやられた。

ボクはうなずいた。

二人並んで、駅前のロータリーを横切った。

何も話さずに、ただ隣を歩く。

雑居ビルの階段を上がり、重たい木製の扉を押した。

かすかにオレンジ色の光と、ジャズが流れ出してきた。
外の湿った空気とは違う、少しひんやりした店内の空気が肌に心地よかった。

中に入ると、異国の港町を思わせる店内だった。

柔らかな照明。

壁には絵や、カジキマグロのオブジェ。

感じの良い女性に案内されて、窓際のカウンターに並んで座った。

「『老人と海』って、ヘミングウェイの小説だよね」 「そう。孤独な老人が、魚と闘う話だったと思う」

森が微笑んだ。

その笑顔の奥に、わずかに滲むものがあった。

フローズンダイキリを二つ頼んだ。

グラスが運ばれてくるまで、ほとんど何も話さなかった。

ただ窓の外を眺めていた。

ロータリーを行き交うタクシー。

信号が変わり、また変わる。

そんな光景が、妙に心にしみた。

ふと、あのときの祥子の後ろ姿がよぎった。


何も言えず、ただ見送った、あの夕暮れ。

頭を振って、その記憶を追い払おうとする。

やがて霜をまとったグラスが運ばれてきた。

森がストローをくわえて、すこしだけ吸った。

その仕草を、ボクはぼんやり見ていた。

「思ったより甘いかも」 「うん。でも、悪くない」

氷がグラスの中で小さく音を立てた。

──静かな時間だった。

でも、沈黙が続くと、どうしても何か話したくなる。

ボクはグラスを持ち上げながら、ふと口を開いた。

「少し前にさ、青梅街道の交差点で信号待ちしてたんだ」

森はグラスを持ったまま、静かにこちらに目を向けた。

「夕方の5時くらい。暑くて、上着を脱いで肩にかけてた。 信号を待ってる間、ふとビルの窓を見たらさ、西日が反射してて…… ちょっとだけ、目が痛くなったんだ」

自分でも、なぜこんな話をしているのかわからなかった。 ただ、森の前だと、少しだけ、過去のことを素直に話せる気がした。

森はストローでグラスを回していた。氷が小さく音を立てた。

「歩いてたらさ、向こうから女の人が渡ってきたんだ。すごい綺麗で、なんか──ぴったり、って思った」

森は返事をしなかった。ストローの先で氷をひとつ沈めた。

「その瞬間、運命かもしれないと思った。本当に、そんな感じだった。でも、話しかけなかった」

森は、グラスの縁を見ていた。

「悩んでるうちに、信号変わっちゃってさ。渡りきっちゃった。……で、終わり」

少し間があって、森が言った。

「ふーん。そういうの、けっこうある?」

「初めてだよ。でも、声かけても、どうせ変な人だと思われるし」

ボクは一度、笑いそうになって、それから言った。

「……いや、いくらボクみたいなイケメンでもね」

森が吹き出した。グラスを置いた。

「イケメンって。よく真顔で言えるよね。……昔からだけど」

ボクはちょっとだけ笑って、氷が沈んでいくのを見ていた。

「……でもさ、なにも言わずに見送っただけって、なんか──残るんだよね。変なかたちで」

森はストローを回した。氷がコツンと鳴った。

「だからって、声かけたからってどうにもならなかったかもしれないけど」

しばらく、ふたりとも何も言わなかった。グラスの底の氷が静かに揺れていた。

森は言った。

「……ためらいって、記憶には残るけど、思い出にはならないんだよね。」

ボクはグラスを握る手に、ほんの少しだけ力を込めた。

「「ためらいは思い出には軽すぎる。」

ボクはグラスの水滴を指でなぞった。

森は一瞬、笑いかけた。でも、やめた。少しうつむいて、それからまっすぐ顔を上げた。

「ねえ、今って、その“ためらいがどうこう”のタイミングじゃないの?」

ボクは森の顔を見た。目が合った。すぐには何も言えなかった。でも、声に出した。

ボクは心の中の迷いを振り切るように、言った。

「……タクシー、乗らない? 湖まで」