焼き鳥屋に行こうと決めて、ボクは駅への道を歩いていた。
二日前、リコと歩いた夜道。 あのとき少し救われた気がしたけれど、それでも、心に空いた穴は埋まりきらなかった。
家にいても落ち着かず、 どうせなら、と、焼き鳥屋で一人飲みでもしようと思った。 生ビールに、焼き鳥と冷やしトマト。 それが、ボクのお気に入りだった。
夜の駅前を歩く。 コンクリートに落ちたネオンの光が、ぼんやりにじんでいる。
ふと、道の向こうから歩いてくる人影に気づいた。 柔らかく揺れる髪、白いTシャツ、紫色のワイドパンツ。
「森だ」とすぐわかった。
立ち止まりそうになるのをこらえて歩き続ける。 森もボクに気づいて、小さく手を振った。
「サヤじゃん」
弾んだ声だった。 でもその目元には、どこか戸惑いのような色も漏れていた。
森が小さく笑った。 ボクも、つられて笑った。 何も言わず、森の方へ歩いていった。
すれ違う手前で、森が立ち止まった。 かすかに息を弾ませながら、そっと顔を上げた。
「また会ったね」
「うん」
言葉はそれだけだったけれど、不思議と、暖かいものが胸に広がった。
「駅前に『老人と海』ってバーができたの、知ってる?」 「……いや」 「まだ早い時間だし、ちょっと寄ってかない?」
森は、ちょっとだけ首をかしげて言った。
誘うというより──ただ、一緒にいたいみたいな、そんな空気だった。
焼き鳥屋は頭の隅に押しやられた。
ボクはうなずいた。
二人並んで、駅前のロータリーを横切った。
何も話さずに、ただ隣を歩く。
雑居ビルの階段を上がり、重たい木製の扉を押した。
かすかにオレンジ色の光と、ジャズが流れ出してきた。
外の湿った空気とは違う、少しひんやりした店内の空気が肌に心地よかった。
中に入ると、異国の港町を思わせる店内だった。
柔らかな照明。
壁には絵や、カジキマグロのオブジェ。
感じの良い女性に案内されて、窓際のカウンターに並んで座った。
「『老人と海』って、ヘミングウェイの小説だよね」 「そう。孤独な老人が、魚と闘う話だったと思う」
森が微笑んだ。
その笑顔の奥に、わずかに滲むものがあった。
フローズンダイキリを二つ頼んだ。
グラスが運ばれてくるまで、ほとんど何も話さなかった。
ただ窓の外を眺めていた。
ロータリーを行き交うタクシー。
信号が変わり、また変わる。
そんな光景が、妙に心にしみた。
ふと、あのときの祥子の後ろ姿がよぎった。
何も言えず、ただ見送った、あの夕暮れ。
頭を振って、その記憶を追い払おうとする。
やがて霜をまとったグラスが運ばれてきた。
森がストローをくわえて、すこしだけ吸った。
その仕草を、ボクはぼんやり見ていた。
「思ったより甘いかも」 「うん。でも、悪くない」
氷がグラスの中で小さく音を立てた。
──静かな時間だった。
でも、沈黙が続くと、どうしても何か話したくなる。
ボクはグラスを持ち上げながら、ふと口を開いた。
「少し前にさ、青梅街道の交差点で信号待ちしてたんだ」
森はグラスを持ったまま、静かにこちらに目を向けた。
「夕方の5時くらい。暑くて、上着を脱いで肩にかけてた。 信号を待ってる間、ふとビルの窓を見たらさ、西日が反射してて…… ちょっとだけ、目が痛くなったんだ」
自分でも、なぜこんな話をしているのかわからなかった。 ただ、森の前だと、少しだけ、過去のことを素直に話せる気がした。
森はストローでグラスを回していた。氷が小さく音を立てた。
「歩いてたらさ、向こうから女の人が渡ってきたんだ。すごい綺麗で、なんか──ぴったり、って思った」
森は返事をしなかった。ストローの先で氷をひとつ沈めた。
「その瞬間、運命かもしれないと思った。本当に、そんな感じだった。でも、話しかけなかった」
森は、グラスの縁を見ていた。
「悩んでるうちに、信号変わっちゃってさ。渡りきっちゃった。……で、終わり」
少し間があって、森が言った。
「ふーん。そういうの、けっこうある?」
「初めてだよ。でも、声かけても、どうせ変な人だと思われるし」
ボクは一度、笑いそうになって、それから言った。
「……いや、いくらボクみたいなイケメンでもね」
森が吹き出した。グラスを置いた。
「イケメンって。よく真顔で言えるよね。……昔からだけど」
ボクはちょっとだけ笑って、氷が沈んでいくのを見ていた。
「……でもさ、なにも言わずに見送っただけって、なんか──残るんだよね。変なかたちで」
森はストローを回した。氷がコツンと鳴った。
「だからって、声かけたからってどうにもならなかったかもしれないけど」
しばらく、ふたりとも何も言わなかった。グラスの底の氷が静かに揺れていた。
森は言った。
「……ためらいって、記憶には残るけど、思い出にはならないんだよね。」
ボクはグラスを握る手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「「ためらいは思い出には軽すぎる。」
ボクはグラスの水滴を指でなぞった。
森は一瞬、笑いかけた。でも、やめた。少しうつむいて、それからまっすぐ顔を上げた。
「ねえ、今って、その“ためらいがどうこう”のタイミングじゃないの?」
ボクは森の顔を見た。目が合った。すぐには何も言えなかった。でも、声に出した。
ボクは心の中の迷いを振り切るように、言った。
「……タクシー、乗らない? 湖まで」