4話 生ビールはセットしておいた

ママと森はカウンター奥で、軽く打ち合わせを始めた。

「今日は予約、二組だけだから」 「了解です。あとグラス補充しておきますね」

リコがビールジョッキを掲げて、

「生ビールはセットしておいたからね」と言ってからビールを飲んだ。

ふたりは手際よく言葉を交わしながら、棚の整理やサーバーの点検に取りかかった。

グラスを拭く音、冷蔵庫を開ける音、氷をバケツに移す音。微かな水音が空気に滲んで、店内にゆっくりと広がっていく。

静かな店内に、そんな小さな作業音だけが響いていた。

その隙間を縫うように、リコがビール片手にボクをいじる。

「で、サヤさぁ、また同じパターンだったわけ?」

「……まあ、そんなとこだよ」

リコはニヤニヤしながら、ボクの肩を軽く小突く。

「また、祥子ちゃんに好きな人できたってやつ?」

「……うん。そんな感じ」

リコはあきれたように笑った。

「まあ、祥子ちゃんも悪気ないからね。仕方ないって」

「……うん。分かってるよ」

ボクは苦笑して、手元のジョッキをくるくる回した。

リコはそんなボクを見て、さらにニヤついた。

「まあ次があるよ。飲もう飲もう」

そう言いながら、ビールジョッキをぐいっと差し出してきた。そのとき、

カラン、とドアベルが鳴った。

最初の客が入ってきた。

中年のサラリーマン風の男たちが二人、

店内を見回してから、カウンターに向かってきた。

「あ、いらっしゃいませ」

森がすぐに前へ出て、笑顔で迎える。

「お好きな席どうぞ。すぐおしぼりお持ちしますね」

やわらかい声。

自然な仕草。

サラリーマンたちは、あからさまに顔をほころばせながらカウンターに腰を下ろした。

 

「また来なよー!」というママの声を背中で聞きながら、リコと二人、夜の道を歩く。

駅前の喧騒はもう聞こえなくて、聞こえるのはリコのふらつく足音と、遠くで走る車の音だけだった。

「ふふっ…あたし、けっこう飲んじゃったかも」

リコが笑って、僕の腕に軽く寄りかかる。 さっき、水割りを何杯も飲まされて、無理やりカラオケも歌わされた。 全部リコのせいだ。

――森は、あの店で仕事をしていた。

初めて見る、黒いワンピースをまとった大人っぽい森の姿は、少し新鮮で、どこか遠くに感じられた。

カウンターの中で、グラスを洗ったり、ボトルを棚に戻したり。 ひと段落つくと、こっちへ水割りを作りに来た。

「はい、サービス」

森がグラスを差し出して、ふわりと柔らかく笑う。氷がカランと鳴った。

「サヤ、お酒好きなの?」

「……まあ、好きな方だと思う」

そう答えると、森は小さく笑った。

「今度は私と飲みに行こうよ」

ちょっとだけ胸がざわついた。
思わずグラスを持つ手に力が入る。
こんなふうに誘われたのは初めてだった。
森の笑顔がやけに近くて、ボクは何を返せばいいかわからなくなった。

店内は賑やかで、笑い声やグラスの音が飛び交っていた。 その中で、森の声だけが、不思議と静かに響いていた。

リコは足元がおぼつかないくせに、楽しそうに僕に寄りかかってくる。 あどけない顔が、ほんのり赤い。

「なーにボーッとしてんの。さみしくなっちゃった?」

「……別に」

強がって言うと、リコはうれしそうに笑いながら僕を見上げた。

「いるじゃん、あたしが」

そんなことを言いながら、リコはふらふらと歩く。 僕はポケットに手を突っ込んで、その隣を歩いた。

しばらくして、リコがふにゃっとした声を出した。

「ねえサヤ……」

「ん?」

「……どうしても孤独に耐えらんなかったらさ」

リコは顔を上げて、少し上目遣いで、いたずらっぽく笑った。声にも、わずかに甘えた響きが混じっていた。

「アタシが、付き合ってやっても、いいよ?」

言い終えると、ケラケラ笑いながら僕の肩を叩いた。

「なに言ってんだよ」

僕も苦笑いしながら、肩をすくめた。

そんな話、最初から本気にする気なんてない。 リコとは、昔から、そういうもんだった。

心地の良い夜風が、二人の間をすり抜けていった。

リコの笑い声を聞きながら、ふと、森の柔らかな笑顔が頭をよぎった。
胸の奥が、かすかに疼いた。

 

続くはず(*´ω`*)