ママと森はカウンター奥で、軽く打ち合わせを始めた。
「今日は予約、二組だけだから」 「了解です。あとグラス補充しておきますね」
リコがビールジョッキを掲げて、
「生ビールはセットしておいたからね」と言ってからビールを飲んだ。
ふたりは手際よく言葉を交わしながら、棚の整理やサーバーの点検に取りかかった。
グラスを拭く音、冷蔵庫を開ける音、氷をバケツに移す音。微かな水音が空気に滲んで、店内にゆっくりと広がっていく。
静かな店内に、そんな小さな作業音だけが響いていた。
その隙間を縫うように、リコがビール片手にボクをいじる。
「で、サヤさぁ、また同じパターンだったわけ?」
「……まあ、そんなとこだよ」
リコはニヤニヤしながら、ボクの肩を軽く小突く。
「また、祥子ちゃんに好きな人できたってやつ?」
「……うん。そんな感じ」
リコはあきれたように笑った。
「まあ、祥子ちゃんも悪気ないからね。仕方ないって」
「……うん。分かってるよ」
ボクは苦笑して、手元のジョッキをくるくる回した。
リコはそんなボクを見て、さらにニヤついた。
「まあ次があるよ。飲もう飲もう」
そう言いながら、ビールジョッキをぐいっと差し出してきた。そのとき、
カラン、とドアベルが鳴った。
最初の客が入ってきた。
中年のサラリーマン風の男たちが二人、
店内を見回してから、カウンターに向かってきた。
「あ、いらっしゃいませ」
森がすぐに前へ出て、笑顔で迎える。
「お好きな席どうぞ。すぐおしぼりお持ちしますね」
やわらかい声。
自然な仕草。
サラリーマンたちは、あからさまに顔をほころばせながらカウンターに腰を下ろした。
「また来なよー!」というママの声を背中で聞きながら、リコと二人、夜の道を歩く。
駅前の喧騒はもう聞こえなくて、聞こえるのはリコのふらつく足音と、遠くで走る車の音だけだった。
「ふふっ…あたし、けっこう飲んじゃったかも」
リコが笑って、僕の腕に軽く寄りかかる。 さっき、水割りを何杯も飲まされて、無理やりカラオケも歌わされた。 全部リコのせいだ。
――森は、あの店で仕事をしていた。
初めて見る、黒いワンピースをまとった大人っぽい森の姿は、少し新鮮で、どこか遠くに感じられた。
カウンターの中で、グラスを洗ったり、ボトルを棚に戻したり。 ひと段落つくと、こっちへ水割りを作りに来た。
「はい、サービス」
森がグラスを差し出して、ふわりと柔らかく笑う。氷がカランと鳴った。
「サヤ、お酒好きなの?」
「……まあ、好きな方だと思う」
そう答えると、森は小さく笑った。
「今度は私と飲みに行こうよ」
ちょっとだけ胸がざわついた。
思わずグラスを持つ手に力が入る。
こんなふうに誘われたのは初めてだった。
森の笑顔がやけに近くて、ボクは何を返せばいいかわからなくなった。
店内は賑やかで、笑い声やグラスの音が飛び交っていた。 その中で、森の声だけが、不思議と静かに響いていた。
リコは足元がおぼつかないくせに、楽しそうに僕に寄りかかってくる。 あどけない顔が、ほんのり赤い。
「なーにボーッとしてんの。さみしくなっちゃった?」
「……別に」
強がって言うと、リコはうれしそうに笑いながら僕を見上げた。
「いるじゃん、あたしが」
そんなことを言いながら、リコはふらふらと歩く。 僕はポケットに手を突っ込んで、その隣を歩いた。
しばらくして、リコがふにゃっとした声を出した。
「ねえサヤ……」
「ん?」
「……どうしても孤独に耐えらんなかったらさ」
リコは顔を上げて、少し上目遣いで、いたずらっぽく笑った。声にも、わずかに甘えた響きが混じっていた。
「アタシが、付き合ってやっても、いいよ?」
言い終えると、ケラケラ笑いながら僕の肩を叩いた。
「なに言ってんだよ」
僕も苦笑いしながら、肩をすくめた。
そんな話、最初から本気にする気なんてない。 リコとは、昔から、そういうもんだった。
心地の良い夜風が、二人の間をすり抜けていった。
リコの笑い声を聞きながら、ふと、森の柔らかな笑顔が頭をよぎった。
胸の奥が、かすかに疼いた。
続くはず(*´ω`*)