生まれてきてすみません。
そんなセリフを声に出して言ったのは、たぶん初めてだった。
天井のシミを眺めながら、ボクは二日目の同じTシャツでゴロゴロしていた。 背中に汗が貼りついて、動くたびにベリッと剥がれる音がする。 気持ち悪い。でも起き上がる気力なんか、とうになかった。
横を向くと、脱ぎ捨てたジーンズが、捨てられた犬みたいにクシャクシャになって転がっている。 あれを拾って履いたところで、どこに行くんだ。
「砂みたいにさらさら消えたい」
口の中だけで呟いた。 誰に向かって言ったのか、自分でもよくわからなかった。
祥子のことを考えた。 胸の奥がじわじわと痛んだ。 考えるな、と思った。 無理だ、と思った。
──あの別れ際の顔。
泣きもせず、怒りもせず、ただ静かに「ごめんね」と言った。 その静けさが、かえってボクの心を深く切り裂いた。
あれで、全部だった。
ボクの二十年間の、たった一つだけ確かだと感じていたもの。 あっけなく、壊れた。
壁際に立てかけたギターに目をやった。 ずっと弾いていない。弦が埃をかぶって、鈍く光っている。 何かを奏でる気にもなれなかった。
スマホが震えた。 一瞬、祥子だと思った。 違った。リコだった。
【今日、飲みに行かない?】
たったそれだけのメッセージ。 シンプルで、悪意のない誘い。 今のボクには、やたらと重かった。
しばらく画面を見つめて、それからゆっくり指を動かした。
【行かない】
送信ボタンを押すと、スマホを裏返して床に放り出した。
あとは時間が過ぎるのを待つだけだ。 ボクは、そう思って床に転がっていた。
チャイムが鳴った。
最初は一回。 次に二回。 間髪入れずに三回。四回。
「……うるせぇ」
顔を枕に押しつけたまま、唸った。 それでもチャイムは鳴り止まない。 連打。文字通りの、連打。
観念して、体を起こす。 足元に転がっていたジーンズを引っ張り上げ、だるい身体を引きずって玄関へ向かう。
ドアを開けると、リコがいた。
「……やば。こいつ」
リコはボクの顔を見た瞬間、ほんのわずかにのけぞった。 クシャクシャのTシャツ。 目の下のクマ。 干からびたような顔色。 汗とホコリのにおいも、たぶん漂っていた。
引くのも無理はなかった。
「なんだよ」
ボクは不機嫌に言った。 リコはボクをじろじろと見た後、肩をすくめた。
「祥子ちゃんに、また振られたんだって?」
心臓を素手でぎゅっとつかまれたような感覚に、思わず顔をしかめた。 当然のように言って、当然のようにボクの胸をえぐった。
「……うるさい」
ボクはかすれた声で言った。 リコは小さく笑った。悪意のない、でも遠慮もない笑いだった。
「シャワー浴びて。あと、着替えろ。ヤバすぎ」
命令口調だった。 ボクは眉をひそめたが、言い返す気力もなかった。 リコは強引なやつだ。小さい頃からずっと。
渡辺真理子。 みんなリコって呼んでる。 ボクとは幼稚園の頃からの付き合いだ。 リコの家は駅前で「ホーム」っていうスナックをやっている。 リコは時々そこで手伝いをしていた。 気さくで、口が悪くて、どこか憎めない。
ボクはリコの言葉に押し流されるように、風呂場へ向かった。
シャワーの音が、うるさく頭に響いた。 心の中のざわめきを、洗い流してくれるわけじゃなかった。
汗とホコリのにおいが流れ落ちて、少しだけ人間に戻った気がした。
バスタオルを腰に巻き、タオルで頭を拭きながらリビングに戻る。 リコはソファに寝転がって、スマホをいじっていた。 無防備に足をぶらぶらさせている。
ボクを見るなり、リコが顔をしかめた。
「裸で出てくんなよ。私も一応、女なんだから」
タオル越しに髪をゴシゴシ拭きながら、ボクは言った。
「今さらだろ」
リコは鼻で笑った。
「そういう問題じゃないの」
リコの無邪気な声が、妙に遠くに感じた。
そう言いながらも、リコは特に目をそらすでもなく、スマホをいじり続けた。 結局、軽くあしらわれたようなものだった。
ボクは洗濯カゴを覗き込んだ。 何日か前に干して取り込んだ洗濯物がくしゃくしゃに突っ込まれている。
「やめな」
リコがチラッとボクを見て、すぐに視線を戻した。
「ちゃんとしたシャツ着て。みっともないから」
仕方なく、タンスの奥からまともなシャツを引っ張り出す。 リコは満足そうに頷いた。
(続く)はず(*´ω`*)
続くはず(*´ω`*)