尾崎と聞くと、なぜか前の奥さんのことを思い出します。
とりあえずこの話は、尾崎で思い出して書いておこうと思って、突如こうして書き始めました。
──あれは、ボクが20代前半の頃の出来事です。
前の奥さんの職場の先輩の女性がいて、名前は忘れてしまったけれど、小柄で控えめな印象の人でした。たしか、まぁまぁ年上だったと思います。便宜的にここではAさんとしておきましょう。
その日、Aさんと前の奥さん、ボク、そしてボクの古い友人Cの4人で飲みに行きました。AさんとCは初対面でしたが、すぐに打ち解けて、場はすごく盛り上がっていたのを覚えています。
Aさんは10年以上付き合って別れてしまった元彼がいて、今はフリーとのこと。Cは陽気でスポーツ万能、マッチョで、プロボクサーのライセンスを持ちながら上場企業に勤めているというスペックですが、ボクの目には「多分チェリーか、もしくは素人チェリー」に見えてました。男子校育ちのせいか、恋愛になると途端に挙動不審になるタイプではないか...と。
そんなCが、Aさんのリクエストで「筋肉触らせて!」と胸筋や腕を触られて、「キャーキャー」言われてる姿は、なんだかんだで微笑ましかったです。
会話の流れで、音楽の話になりました。
Aさんはなんと「尾崎豊と知り合いだった」と言うのです。売れる前から電話番号を知っていて、売れたあとも時々電話してたらしい。
「尾崎って根暗だったの?」ってボクが聞いたら、「いや、めちゃくちゃ明るくて面白い人だったよ」とAさん。意外だなと思いつつ、ニワカなりに「尾崎って暗い曲多いのにそうなんだ」と相槌を打ちました。
前の奥さんは「尾崎って誰?有名なの?」という天然発言。
Aさんとボクで「すごい人気だったけど、もう亡くなったんだよ」と説明すると、奥さんも興味を持って、Aさんに「付き合ってたの?」とか、根掘り葉掘り聞き始める始末。Aさんは笑いながら「ただの友達だよ」と言っていました。
ところで、尾崎の墓って、ボクの地元の近くにあるんです。
東京郊外、湖と原生林に囲まれた“静かな湖畔”エリア。ダム湖が2つ(正確には3つ)、トトロの森、ホテル街、遊園地、全部そろってる不思議で魅力的な場所。ホテル街にあった鏡の国のアリスというお城みたいなホテルは子供の頃から内部がどうなっているのか想像してハァハァしていました。
『トトロ』のサツキとメイのお母さんが入院してる「七国山病院」のモデルもこの辺りにあります。ボクがカブトムシを採りに行っていた山です。ちなみに当時は忍者もいました(昔ブログで記事を書きました)。
Aさんの希望で、後日その尾崎の墓へ行こうということになりました。
———
墓参りに出かけたのは、たしか翌週末くらいだったと思います。
夏の夜だけど、そこまで暑くなかった。涼しい風が流れていて、静かな湖畔の雰囲気とぴったりだった。AさんとC、前の奥さんとボクの4人で、Cの黒くて大きな日産のセダンに乗って、出発しました。
墓は、有名なアーティストがライブを開く野球場のすぐ近くにあって、少し小高い場所にあり、通りから少し入っただけで空気がガラッと変わったのを覚えてます。
その墓地に入ると、ギターを持った男がいて、弾き語りをしていました。供え物がたくさん置かれた一つのお墓。すぐに「これが尾崎の墓だ」と分かる雰囲気でした。
ボクにとっては、名前をよく知っている有名なミュージシャン。でも、Aさんにとっては、何かしら特別な思い出があったんだと思います。しばらくの間、お墓の前に立ち尽くして、何かを心の中で語りかけているように見えました。
ギターの弾き語りが、ずっと静かに流れていて、あの瞬間だけ時間が止まっているような、不思議な感覚になったのを覚えています。
Aさんは少し涙ぐんでいました。Cが彼女の小さな肩をぽんと叩いて、そっと寄り添っていました。
ボクと前の奥さんはそんな二人の様子を遠目に眺めていました。
帰りはボクが運転を代わって、助手席に前の奥さん。後部座席にはAさんとCが座りました。とりあえず、ボクの家の近くの居酒屋で一杯やろうということになっていて、湖畔沿いのカーブが続く道を気分よく走っていました。
ボクは「この辺、幽霊が出るんだよ」とか、「バス釣りしてたら卒塔婆が流れてきてビビった」とか、くだらない話をしながら運転してました。
前の奥さんはあんまり興味なさそうに、「へぇ〜」とか「ふーん」と、適当な相槌だけ返してきてました。
ちょっとキツめのカーブに差しかかったとき、後部座席からAさんの声がしました。
「ちょっと〜」
「サヤの運転が荒いから手が当たっちゃった」と、Cが言い訳。
「胸にわざと当てたでしょ」とAさんが返す。
「いやいや、サヤの運転が悪い」とCが繰り返す。
すると前の奥さんが、「おい、C」とドスの利いた声で一言。そして続けました——
「お前、マジでバカだな。違うだろ?まずは手を握ってからキス狙いだろうが!」
「隣にちょっと心が弱ってる女の子がいるんだぞ。墓で肩に触れても拒否されなかった。で、こいつ(多分ボク)はつまんない話をしてて、別に会話が盛り上がってたわけじゃない。くだらない話だから私が適当に相槌を打ってれば問題ない。後部座席は独立したそれなりにいい雰囲気の空間だったんだよ。」
「それなのに、なんでそこで胸に行くんだよ!? たとえ『この人いいかも』って思ってたとしても、いきなり胸触られたら引くに決まってんだろ!」
「お前はアレか?2回目に会った女にいきなりチンコ握られたら、嬉しくて付き合いたくなるのか?普通『うわ、ヤベえ女』って思わねぇ?風俗行きすぎて感覚バグってんじゃねぇの?」
「ちなみにこいつなんか(たぶんボク)、夜の海で二人きり、階段に座って会話が途切れて……私が肩に寄りかかって、俯いて、自分の髪を指でいじってるのに……キスするまで10分くらいかかったからな。」
「こいつもこいつだけどさ、お前はマジでヤバいわ。いいか?まずは手を握って、それからキス。これが順番な。」
「Aさん、ごめんね。C、ほんとは悪いヤツじゃないんだけど、女の子に慣れてなくてさ。……な?C、お前もちゃんと謝れ。」
「ごめんなさい」と、Cはかなり気まずそうに小さな声で言いました。
それに対してAさんは、優しく微笑みながら言いました。
「この前、飲みに行ったときに、私が『筋肉触らせて』ってお願いしたよね? あれは、ちゃんと聞いてから触ったんだよ」
「だから、Cくんも、もし触りたいなら……これからはちゃんと『触らせて』って言わなきゃダメだよ。いい?」
まるで子どもに教えるような、やわらかい口調でした。
Cはうなずきながら、「ごめんなさい。わかりました」と素直に答えました。
しかしですが、普通に考えたらもう無理だろうと思いました。
が、前の奥さんは
「じゃあ続きね。――で、サヤちゃん、釣りの話して。」
ボクはとりあえずリクエスト通りの釣りの話をしました。
「正直なところ、バス釣りってちょっと不思議なんだよね。
たしかに釣るのは楽しい。ルアーの動かし方を工夫したり、「来た!」って瞬間のあのドキドキ感はクセになる。
でもさ、最近ふと思ったんだ。
釣って食べるならまだしも、釣って逃がすって、命に対してどうなんだろうって。
食べるために魚を釣るのは、生きるための自然な行為だと思う。
人間も動物の一部なんだし、命をいただいて生きてるっていう意味では納得できる。
でも魚を釣って写真を撮って、「ありがとう」とか言って逃がすのって……それって誰のためなの?魚のため?
結局、人間がもう一度釣りを楽しみたいから逃がしてるだけなんじゃないのって思うんだよね。
しかもさ、ブラックバスってそもそも外来種でしょ。
日本の川や湖に昔からいた魚たちを食べちゃって、生態系を壊してる存在とも言われてる。
それなのに、リリースして「また遊ぼうね」ってやってるの、どうなんだろうって。
本来なら駆除すべきって考え方もあるのに、釣りの対象としては「守ろう」ってされてたりして、矛盾してない?
でも、そもそもブラックバス自身が「日本に来たい」なんて思って来たわけじゃないんだよね。
誰かが人間の都合で持ち込んで、繁殖してしまっただけ。
生態系を壊しているのは事実かもしれないけど、その責任はバスじゃなくて人間にあるんじゃないかなって思うこともある。
それを釣って逃がしてまた釣って……って、なんか勝手だよね。
さらに言えば、一部では釣具メーカーとか釣りに関わる利権を持った人たちが、実はブラックバスを違法に放流しているという話もある。
本当かどうかはわからないけど、もしそれが事実なら、人間のビジネスのために自然や命が利用されてるってことになるよね。
そうなると、趣味とか遊びの話じゃ済まなくなる。
つまり、「生きるための釣り」でもなく、「自然を守るための行為」でもない。
人間の娯楽のために、外来魚を釣って逃がすって、それって自然に対して誠実なのかな。
もちろん楽しみ方は人それぞれだけど、ただ「楽しいから」って理由だけで命を扱うのは、ちょっと立ち止まって考えてもいいんじゃないかって思うんだ。
自然と向き合うって、案外難しいことなのかもしれない。
難しい問題なのは間違いない。正解なんて一つじゃないかもしれないし、どれか一方だけを責めることもできない。だけど、自然とどう向き合っていくかっていう問いに対しては、そろそろちゃんと結論を出さなきゃいけない時期に来てるんじゃないかと思う。
それぞれの立場や価値観はあるけれど、それでも僕ら一人ひとりが、この問題にどう向き合うかを考える覚悟は持つべきだと思うんだ。
みんなは、どう思う?」
前の奥さんは、ボクの話に「へぇ〜」「ふーん」なんて適当に相槌を打っていた。
でもきっと、空気を読んだ“ちょうどいいどうでもいい話”を繰り出すボクの能力に、ちょっと感心してたんじゃないかと思う。
ただ、後部座席の雰囲気はそうスムーズにはいかず、Cはもじもじと申し訳なさそうな態度。
逆にAさんのほうが気を使って、「ねえ、女の子と付き合ったことないの?」なんてやさしく声をかけていた。
家に到着したら車をおいて徒歩で行きつけの居酒屋へ。
ビールで乾杯して、普通にワイワイと飲んで、もう一軒行ってからボクの家で飲み直そう、という流れになった。
缶ビールにワイン、サワー、そしてコンビニで買ったツマミを広げて、みんなそれぞれ、いい感じに酔っていたと思う。
ボクは酔ってハッピーになっていて、たぶん誰も聞いていないのに車の話を一人でしていた。
Cは、さっきの件が気になっていたのか、Aさんに「ほんとに女性と交際したことないの?」なんて聞かれていた。
あんな出来事があったあとにしては、雰囲気はそこまで悪くなかった、と記憶している。
前の奥さんは、「いきなり胸行くバカって、結構いるんだよねぇ」と言って、少し呆れたように話し出した。
「私もさ、高校生の時、初めてデートした男に山下公園のベンチでいきなり胸揉まれてさ。『やめてよ』って言ったのに全然止まらなくて、スカートの中まで手を入れられてさ。
男って恋愛のつもりかもしれないけど、あれ犯罪だからね。Aさんが警察行ったら、Cだって犯罪者になるんだから」
……もちろん、山下公園の男はボクじゃないです。念のため。
そのうち、前の奥さんが「C、さっきの車の中での“正解”を教えてあげる」と言い出して、二人がけのソファーに座るように促した。
Cは明らかに酔っていて、顔もムキムキの腕も真っ赤だった。
彼はおどけた様子でソファーに腰を下ろし、よく分かってないまま流れに身を任せた感じだった。
前の奥さんはCの隣に座り、「じゃあ、私がAさんの真似するからね」と言って、Cに寄りかかりながら「すごい筋肉〜♡」なんて言いながら、彼の胸筋をツンツンとつつき始めた。
それを見たAさんは、「私そんなことしてないよ〜!」と爆笑。
「C、私の手を掴んで、『指細いね』とか『爪きれいだね』とか褒めてよ」と、前の奥さんが続ける。
Cは言われた通りにしようとするが、やっぱり照れてしまって、笑いながら「無理無理」と逃げ気味。
ボクは「何を見せられてるんだろう」と思いながら、半笑いでその光景を見ていた。
その後、前の奥さんが「じゃあ今度はサヤちゃんとAさんね」と言って、ボクとAさんにソファーに並んで座るように促した。
ボクはちょっと困惑したけれど、Aさんは意外とノリノリで「さやちゃん早く〜!」と笑いながら手招きしてきた。
しぶしぶ隣に座ったボクに、前の奥さんが「Aさんの手、握って褒めてみてよ」と指示してくる。
正直かなり戸惑ったけれど、酔っていたのもあって、Aさんの手を軽く握り、「意外と冷たいね」とボソッと口にした。
Aさんは吹き出すように笑って、「さやちゃんは手が熱いね〜」と返してきた。
前の奥さんは爆笑。「さやちゃん全然ダメ。褒めてないし!私が恥かくからやめて〜」と突っ込んできた。
今度は「じゃあ、AさんとCね!」と前の奥さんが号令をかける。
Aさんはやっぱりノリノリで、「Cくん早く〜!」とニコニコしながら手招き。
Cは真っ赤な顔をして、ゆっくりAさんの隣に座った。
Aさんは、さっきの前の奥さんの真似をしてCの胸や腕をツンツン。「すごい筋肉〜♡」と笑いながら言った。
CはしばらくAさんの手を握るかどうか迷っている様子だったが、やがてそっと手を下ろして言った。
「さっきはごめんなさい」
「俺、好きな人の前だと緊張しちゃって、ウケるかなとか思って変なことしちゃうんです。これからは気をつけるんで、また会ってください」
顔を赤くしながらも、真剣な表情だった。
Aさんは一瞬きょとんとしてから、優しく笑って「いいよ」と言った。
CはAさんの返事を確認するとはっきりとした口調で「手を触ってもいいですか」と言った。
前の奥さんが「ちょっと成長したのか?これ」と悩ましげに顔を歪めた。
前の奥さんの基準では手は勝手に触っても良いものなのかもしれない。
Aさんは笑顔で「いいよ」と返事をした。
CはAさんの手に触れて「マジで意外と冷たいんですね」と言った。
Aさんは「Cくんの手は熱いね」と笑いをこらえて言った。
前の奥さんは笑いが止まらずにヒーヒー言って震えていた。
ボクは麦焼酎のロックを飲み、明日はFDで一人で奥多摩にでも行きたいなとぼんやり考えていたが、二人の様子を見ていると、なんだか、静かで暖かい空気が流れたような気がした。
その後特にハプニングもなく、ボクとCはボクの部屋で、前の奥さんとAさんは前の奥さんの部屋で眠って、翌朝Cが帰宅し、Aさんは前の奥さんが自宅まで送っていった。
その後、地元で助手席にAさんを乗せた日産の黒いセダンを地元で見かけた。
前の奥さんから聞いた話ではAさんとCは付き合っているとのことだった。
前の奥さんは「もしAさんじゃなければCは犯罪者になっていたかもしれないよね。触っていいタイミングとか、ぜんっぜん分かってなかったじゃん。Aさんが男好きだったからよかったけど、違う人だったら墓参りの帰りの車内のあれで通報だったかも。」みたいなことを何回か言っていた記憶がある。
ちなみにボクの解釈では男好きは悪口だが、前の奥さんの解釈では男好きは愛情豊かなみたいな意味で、男好きする顔は最高の褒め言葉と受け取っているようです。
「私も何回か嫌な目にあったし、学校でちゃんと教えれば良いんだよね。数学なんて役に立たないけど、女性といい雰囲気になったときは肩に触れて嫌がっていないか確認して、手に触れて、嫌がってなかったらキス、キスする前に他のところは絶対にさわるなってね。」
数学は役に立つと思うがボクは何も言わなかった。
それ以外は前の奥さんの主張に概ね賛成だったからだ。
で、この蘇った記憶を文章にして読み直して感じたことですが、恋愛の順序は語れるのに不倫はするのかってことでした。近い内に会うことになるのでこのブログを読ませて、直接聞いてみたいと思います。
もし彼女があの夜のことを覚えていて、少しでも心が動くなら、
ボクのこの問いにも、ちゃんと向き合ってくれるんじゃないかと思っています。
それで何が変わるわけでもないけど、
記憶の整理って、たぶん、そういうことの繰り返しなんだと思います。
言葉にして、差し出して、返ってくる何かを受け止めて――
それで、ようやく前に進めることもあるから。
さて、どう返ってくるのか。
少しだけ、楽しみにしています。